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ブルックナーの交響曲第4番が全く分らず、識者達のご助言を受け、2,30回以上...

k_y********さん

2018/5/308:05:28

ブルックナーの交響曲第4番が全く分らず、識者達のご助言を受け、2,30回以上聴き込み何とかそのす晴らしさが分りかけて来ました。その壮大さには圧倒されます。

当時1874年頃(日本では明治初期)の現地独逸やオーストリア国内では識者や民衆にはどのように受け止められていたのでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

un_********さん

2018/5/401:02:27

1883年にリヒャルト・ワーグナーが亡くなった時のドイツ音楽界の状況について、三宅幸夫『ブラームス』(新潮文庫)ではこう書いています。

「彼(ブラームス)はワーグナーの人間はともかくとして、その芸術には敬意を払い続けてきた。だが競争相手が世を去ってしまったいま、彼がドイツ音楽界を代表する唯一の巨匠となってしまったのである。もちろんワーグナー派はブラームスの対抗馬としてアントン・ブルックナーを担ぎだしたのだが、それはあくまでもウィーンのローカルな話題にすぎない。知名度の面からだけ見ても、ブルックナーは到底ブラームスの対抗馬とはなりえなかった。」

また若き日のマーラーとブルックナー教授との出会いについて、船山隆『マーラー』(新潮文庫)ではこう書いています。

「当時50代のはじめにさしかかっていたブルックナーは、初期の交響曲の創作にいそしむと同時に、ヴィーン大学で和声学その他の教鞭をとっていた。1877年の夏季休暇中に郷里のイーグラウのギムナジウムで卒業試験を受けて大学入学資格を手にしたマーラーはその年の秋から、音楽院から遠くないリングシュトラーセに面したヴィーン大学にも登録し、ブルックナーの和声学やハンスリックの芸術史の講義を聴くことになった。ブルックナーの『交響曲第3番』の第2稿は、その年の12月16日、ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演されたが、演奏の質もあまりよくなく、多くの聴衆が途中で席を立って帰ってしまうということがあった。しかしマーラーとクルシシャノフスキーの二人は、ブルックナーの『交響曲第3番』に全面的な共感と感動を示した。」

これらの記述からも、ブルックナーが人気作曲家には程遠かったこと、またワーグナー派の論客たちによってブラームスの対抗馬として担ぎ出されたものの、真にブルックナーの音楽の良さを理解していたのはマーラーのような優れた音楽家だけだったのだろうと推測できます。

なお、ブルックナーは作曲家としては非常に「遅咲き」だったことも押さえておく必要があります。交響曲第1番が42歳、第4番の初演は50歳の時です。

それまでのブルックナーが何をしていたかというと、大学で和声学や対位法を教える先生です。そして教会のオルガン奏者・合唱指導者をしており、宗教曲やオルガン曲のいくつかを作曲しています。オルガンの即興演奏の名手だったと言われています。

1883年にリヒャルト・ワーグナーが亡くなった時のドイツ音楽界の状況について、三宅幸夫『ブラームス』(新潮文庫)で...

質問した人からのコメント

2018/5/4 11:23:49

貴殿の教養や読書と叡智により、ありがたいご見解を開陳いただき無上の参考となりました。深謝申し上げます。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

pla********さん

2018/5/308:29:36

ブルックナー4番は「ロマンティック」という副題が付いてるから逆に難解なんです。3番「ワグナー」など、この人の曲に副題はいらないですね。

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