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司馬徽について教えて下さい。 かなり昔なのですが、 臥竜鳳雛を写し出した鏡...

夏海さん

2018/6/421:26:43

司馬徽について教えて下さい。

かなり昔なのですが、
臥竜鳳雛を写し出した鏡こそが、
水鏡、即ち司馬徽である。
それも普通の鑑ではなく、
水の鑑、水鏡である。

臥竜鳳雛水鏡なのだ



と教えてくれた人がいます。

うまい!
と思いました。

但し、ソースを訪ねるのを
忘れました。

聞かれたことございますでしょうか?
ご教示いただけますと幸いです。

閲覧数:
59
回答数:
1

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ベストアンサーに選ばれた回答

漢晋春秋さん

2018/6/612:13:35

特に出典などはないように思います。もしかしたら、私が読んだ事のない小説や漫画でそのような表現があったのかも知れませんが。

諸葛亮を臥龍、龐統を鳳雛と評したのは龐統の族父(おじ)にあたる龐徳公ですが、龐徳公は司馬徽のことを水鏡と評した人物でもあります。
正史『三國志』の蜀書龐統伝に引く『襄陽記』によれば、司馬徽は龐徳公より10歳年少であり徳公に兄事した、とあります。龐徳公は龐統の族父であり、龐徳公の息子の龐山民は諸葛亮の姉婿でもあります。

こういった関係性を考えて見ると、龐徳公は龐統や諸葛亮の親世代、司馬徽は龐統や諸葛亮と龐徳公とのちょうど間ぐらいの年齢であると推測されます。『三国志演義』では司馬徽は龐統より5歳年長との表現もあります。
蜀書龐統伝には龐統が20歳の頃に司馬徽に会いに行って1日語り合い、司馬徽が高く評価したことから世間で名を知られるようになった、とありますが、その部分に引く『襄陽記』では龐統を司馬徽に会いに行かせたのは龐徳公であり、司馬徽は龐統と語らった後に龐徳公の人を見る目の確かさを賞賛しています。
また蜀書諸葛亮伝によると先に劉備に仕えた学友の徐庶が劉備に「諸葛亮は臥龍」と推薦しており、その記事に引く『襄陽記』でも司馬徽が劉備に「諸葛亮は臥龍、龐統は鳳雛」と推薦しています。これらのことを考え合わせると、諸葛亮や龐統は確かに司馬徽に師事していたけども、彼らの中心には龐徳公の存在があったことが分かります。

なお、Wikipediaには龐徳公の生年が163年と出ていますが、これはおそらく『三国志演義』の龐統と司馬徽の年齢差を元に書かれたものと思われます。司馬徽の生年は正史『三國志』の各記述を見る限りは確定できず、従って龐徳公の生年も確定出来ません。

ちなみに司馬徽の元には戦乱を避けて当時荊州に避難したり遊学していた多くの人材が集い、また評判を聞いた地元有力者の子弟も学んでいました。判明しているだけでも龐統、徐庶、孟建、石韜、崔州平、馬良、尹黙、尚朗、韓嵩、李仁(蜀の李センの父)などなど。そして実は諸葛亮が司馬徽の元で学んでいたという明確な記述はありません(爆)。
諸葛亮は徐庶、崔州平、孟建らと親交を結んでおり、姉が龐徳公の息子(龐統の従兄弟)に嫁いでいる事から龐統や龐徳公とも当然面識があったはずで、彼らを通じて司馬徽とも交流はあったと考えるべきです。ただし、あくまでも「司馬徽の私塾で学んでいた可能性が高い」という程度の話で、本人や周囲の証言があるわけではないのです。

  • 質問者

    夏海さん

    2018/6/914:56:43

    ありがとうございました。

    やはり
    臥龍鳳雛水鏡にロマンを感じました。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

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質問した人からのコメント

2018/6/11 11:11:40

ご教示ありがとうございました。

またの機会がありましたら、どうぞよろしくお願い致します。

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