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「対米戦3カ月完了」の杉山元帥はどんな見通しがあったのですか? 杉山元元帥は...

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ID非公開さん

2018/6/1009:40:41

「対米戦3カ月完了」の杉山元帥はどんな見通しがあったのですか?

杉山元元帥はアメリカとの戦争について「太平洋方面は3カ月で
作戦終了」と答え、天皇に叱責されています。

対米戦に消極的だった山本五十六氏とは対照的ですが、陸軍一の
華麗な軍歴を誇る杉山元帥はどんな勝算やプラン、見通しがあった
のでしょうか。あのアメリカを3カ月で始末するとは、杉山元帥は
諸葛孔明のような1000年に一度の大軍師だったのでしょうか。





※質問者:東京20代男性 ※画/出典:Wikipedia

山本五十六,杉山元,杉山元帥,諸葛孔明,永野修身,杉山元元帥,富岡定俊

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cel********さん

2018/6/1317:27:48

ご質問は(一回目の)「帝国国策遂行要領」を決定した御前会議の前日(1941年9月5日)に昭和天皇と杉山元陸軍参謀総長の間に交わされた会話の事を仰っているのだ、と理解します。

が、その時に杉山元は「対米戦が3カ月で完了する」とか「アメリカを3カ月で始末する」とか言った意味の発言はしていないのではないですかね。正確に言えば、そういう意味で杉山が語ったとする史料は(私の知る限りでは)なく、そういう意味の発言ではなかった事を示す史料なら複数あります。
(勿論、杉山だけでなく当時の大本営がそれなりの根拠のある“米国に勝つシナリオ”を持っていたかどうか、は全然別の話です)

史料の一部のつまみ食い、微妙な改変、空想で補う、などで、元の史料の意味から離れた「創作」をする人の主張がネットや世間の一部の本にはあって、更にそれがネットで拡散されていく、といった事は珍しくないです。
「どの史料を根拠にしているか」を具体的に記載しないネット上の匿名の主張は、その類の疑いありと思った方が安全かも…、と私は思います。

杉山元が、昭和天皇に「対米戦自体が(3ヶ月とか5ヶ月とか言った)短期間で終わる」と言ったかのような主張を、もしネットで聞かれたのなら、その手の「空想・微妙な改変等で捻じ曲げられたウソ」として無視された方が良いと思いますよ…


根拠を挙げておきます。

9月5日の(近衛首相同席の)杉山陸軍参謀総長&永野海軍軍令部総長の奉答の際の、杉山の発言については、大雑把に分けると、多少相違のある二系統の史料があります。

一つは、当時の大本営陸軍部側のメモで、これは国立公文書館アジア歴史資料センターのWebで誰でも見られます。ご自身で確認される場合は↓にレファレンスコードC12120286700を入力してリンクを辿って下さい。
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/reference

手書きでちょっと読み難いので該当部分を引用すると…

~~

御上 南方作戦は予定通り出来ると思うか。

参謀総長右に対し馬来比島等の予定作戦を詳細奉答す。

御上 予定通り進まぬ事があるだろう。五ヶ月と云うがそうはいかぬこともあるだろう。

総長 従来陸海軍で数回研究して居りますので大体予定の通り行くと思います。

御上 上陸作戦はそんなに楽々出来ると思うか。

総長 楽とは思いませぬが陸海軍共常時訓練して居りますので先づ出来ると思います。

(以下略)

~~

となっています。お読み頂ければわかるように、昭和天皇が「南方作戦は予定通り出来るのか」と聞いたのに対して、杉山は、マレー半島やフィリピンなどの作戦を説明し、それに対して再度天皇が「五ヶ月という予定通りに行かない事もあるだろ?」と質問しています。つまり、対米戦争自体ではなく、南方占領についてのやり取りの中で、杉山は「五ヶ月で終わる」と言っている、という事です。

もう一つのヴァージョンは近衛文麿の回想に出てくるもので、その中の一つとして、国立国会図書館デジタルコレクションで見られる『平和への努力』(近衛文麿・日本電報通信社・1946年4月)のP86から引用します。(↓で確認頂けます)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042005/47

~~

続いて陛下は杉山参謀総長に対し、「日米事起らば、陸軍として幾許の期間に片付ける確信ありや」と仰せられ、総長は「南洋方面だけは三ヶ月位にて片付けるつもりであります」と奉答した。陛下は更に総長に向かわせられ、「汝は支那事変勃発当時の陸相なり。其時陸相として。「事変は一ヶ月位にて片付く」と申せしことを記憶す。然るに四ヵ年の長きにわたり未だ片付かんではないか」と仰せられ、総長は恐懼して、(以下略)

~~

こちらでは、昭和天皇の問い掛けは「日米戦争全体の見通し」にも取れるものになっていますが、杉山の返事は『南洋方面だけは三ヶ月位にて片付けるつもり』ですから、仮に天皇の質問が米国を屈服させるまでを問うたものだったとしても、杉山はそういう意味で「三ヶ月」と答えたのではないのは明白です。

…という訳で、冒頭に申し上げたように、「杉山元は、南方作戦が3ヶ月もしくは5ヶ月で終わる、と言う主旨の発言をした」事を示す史料は複数ありますが、「アメリカを3カ月で始末する」とか言った主旨の発言をした事を示す史料は(勿論私の知る限りは、ですが)ないので、杉山元は「三ヶ月で日米戦を終わらせられる」と昭和天皇に語ったのではない、と理解すべきと私は思います。


(ご参考)

大本営の「勝つ(少なくとも負けずに終わる)シナリオ」として日米開戦前の唯一の公式のものは、1941年11月15日付の『対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案』です。これも国立公文書館アジア歴史資料センターで見られます(レファレンスコードC12120209300)

その冒頭にある『方針』には、

~~

一 速に極東における米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に、更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し、独伊と提携して先づ英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む。
二 極力戦争対手の拡大を防止し第三国の利導に勉む。

~~

とあります。

多少は具体的な部分は、この続きをお読み頂ければわかりますが、

・まず東南アジアの米英蘭の植民地を占領し、戦争を当面継続する為の資源とその輸送ルートを確保して「戦い続けられる」体制を作る。
・ドイツが頑張ってくれれば、その内英国も根を上げてドイツに屈服するだろう
・英国がドイツと講和すれば、米国が戦う意味が乏しくなり、米国民の中に厭戦気分も広がって、日本は“負けずに”終われるだろう

…ってな感じです。

要領の部分で英国を屈服させる(=講和に応じさせる)手段として挙がっているのは、日本単独の方策としては、『オーストラリアとインドの攻略と通商破壊で本国との連絡を遮断』と、『ビルマを独立させインドの独立運動を刺激する』ぐらい、日独伊三国共同の方策は、「インド洋を通じた連携」「海上作戦の強化」「占領地資源の対英流出の禁絶」といった程度のものしかありませんでした。

その“負けない”シナリオについて、開戦当時の軍令部作戦課長の富岡定俊大佐の戦後の回想を、平成14年度の防衛省防衛研究所戦争史研究国際フォーラム報告書(↓)の中の『日本の戦争計画におけるイギリス要因—「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の消滅まで』(赤木完爾)という論文から孫引きします。
http://www.nids.mod.go.jp/event/forum/j2002.html

『この戦争は、敵に大損害を与えて、勢力の均衡をかちとり、そこで妥協点を見出し、日本が再び起ちうる余力を残したところで講和する、というのが私たちのはじめからの考え方であった。だが、そうはいっても、講和の希望にたいする裏付けが、とくにあったわけではない。しかし、当時は、欧洲でも大戦が進行しており、最高指導者の間ではドイツも非常に勝っていることだし、バランスということもあるので、講和のキッカケはその間にでるだろう、と考えられていた』
(元ネタは富岡定俊『開戦と終戦』(毎日新聞社・1968 年・P56)

政府&軍指導部が事実上の開戦決意を固めた11月1~2日の大本営政府連絡会議の直ぐ後で、その会議の結論を形式上天皇臨席で決定する5日の御前会議の前日の11月4日に開催された軍事参議会(一線を退いた陸海軍幹部による諮問会議)での永野海軍軍令部総長の説明では、

・二年間は自信あり
・長期化すると米国はどんどん強力になっていく
・だから長期戦の結果は(勝てないではなく、無理矢理?)“わからない”
・まして、その間の世界情勢の変化は予想できない
・日米の講和のきっかけは、(米国本土を攻撃できないし通商破壊も効果は知れているので)通商破壊で英国を”餓死”に追い込んで屈服させて、英米まとめて講和に持ち込むのが早道(その為には、ドイツの英国上陸作戦の成功が望ましい)

といった事になっていました。(ご自身で確認されるのであれば、国立公文書館アジア歴史資料センターC12120205700の5~7/24画像です)

これは、富岡定俊の回想が”楽観的な”トーンであるのに対し、永野修身の説明は「米国に勝つのは不可能だからこれしかない」というトーンであるだけで、結局のところ英国が戦争から離脱する事に期待している、という点では違いはありません。

こんな程度の「結局ドイツ頼み」のシナリオしかなかった、という事です。更に現実には、短期戦前提のドイツの対ソ攻勢は1941年11月終りには止まっていたので、「それしかない」というドイツ頼みすら、開戦時にはもはや『??』だったのですけどね…


ところで、以前、上記の富岡定俊の回想をこのサイトで紹介したところ、別の回答者から、

富岡のウソですね。そんな計画はありませんでした。その様な資料は「まったく」存在しない。

と言われた事があります。例えば、永野修身は1941年9月3日の大本営政府連絡会議で富岡の回想と同じ様な言い方をしていた(アジ歴C12120252300)のをその人は知らないようでした。匿名で好き放題の事を何の責任もとらずに言えてしまうネットだと、やはりこういう人もいるのだなぁ、と思いましたよ。自分が知らない事は「ウソ」とか「そんな資料は全く存在無い」とか断言しちゃう”大胆”な人が…

昭和天皇に杉山元が語った主旨についても、既に挙げた当時の大本営陸軍のメモや同席した近衛文麿の回想よりも信頼度の高い史料が「対米戦自体が3or5ヶ月で終わる」というモノだった事を示していれば、私の上記の理解は当然ウソ・間違いです。私は学者じゃありませんので…

ただ「どの原史料に基いているか」を言わなけりゃ、誰でもどんな空想も語れるので、根拠史料を明示しないネット上の主張には思い切り眉に唾をつけて聞かれた方が良いのでは…、とは思います。

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質問した人からのコメント

2018/6/13 21:31:26

とても勉強になりました。皆様もありがとうございました。

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kou********さん

2018/6/1205:21:01

御質問への直接の回答としては、「何もありませんでした。」 以下、少々長くなりますが、、、

杉山元(はじめ・げん)陸軍元帥。開戦時は大将で陸軍参謀総長。余りのボケぶりに「ボケ元(げん)」「ぐず元」と仇名されました。

おっしゃる様に、昭和天皇から「もし日米開戦となった場合、どのくらいで作戦を完了する見込みか?」と聞かれ、「太平洋方面は三ヶ月で作戦を終了する見込みでございます」と返事。

天皇、「お前は支那事変勃発当時の陸軍大臣だった。事変は二ヶ月ほどで片付くと申したのに、4年たった今になっても終わっていないではないか」

困った杉山、「支那はとにかく広うございまして、予定通り作戦がいかなかったのであります」、と。

天皇、「支那が広いというなら太平洋はなお広いではないか。いかなる根拠で三ヵ月と言うのか?」と。答えに窮した杉山は大恥をかいた事は有名な話です。

当時はこの程度の軍人が大日本帝国軍のトップに座っていたのです。

>対米戦に消極的だった山本五十六氏とは対照的ですが、

山本は対米戦争には「消極的」どころか、強硬に反対しました。しかし国が戦争するか、しないか、するとしたらどんな政略・戦略を基礎にするか、などと言う事は政府・軍のトップ、つまり首相、陸軍大臣、海軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長の責務だった。しかし山本は最後の最後まで個人ベースで対米戦争の非を訴えました。

例えば、嶋田繁太郎海軍大臣にはこう書きました。

「大勢に押されて立ち上がらざるを得ずとすれば、艦隊担当者としては尋常一様の作戦にては見込み立たず、結局、桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せ行うのやむを得ざる羽目に追い込まれる次第、、、」

つまりまともな戦争にならないぞ、と。

また、別の手紙で「こうなった以上は陛下に戦争はやるなと言っていただく様にお願いしてくれんか」と言う意味の事まで書いている。しかし優柔不断で、総理大臣・陸軍大臣の東條英機の副官、東條の男めかけとあだ名された嶋田海軍大臣は東條に引っ張られて開戦に同意してしまいました。

永野修身軍令部総長に対し、どうしてもやれと言われたら聨合艦隊としてはこんな作戦を、と説明したあと、こう言いました。

「次に一大将として第三者の立場として申せば、日米戦争は長期戦となること明らかであります。日本が有利なる戦いを続ける限り米国は戦いをやめざるべきをもって戦争は数年に亘り、資材を蕩尽せられ、艦船・兵器は傷つき、補充は大困難を来たし、ついに拮抗し得ざるに至るべし。のみならず国民生活は非常に窮乏を来たし、、、かかる成算なき戦争は為すべきではないと思います」

それにも拘わらず、「ボケ元」といい勝負で(笑)耄碌が始っていた永野軍令部総長も東條に迎合して対米戦争を促進しました。

いよいよ日本が戦争を決めた時、山本は海軍兵学校同期の親友・堀悌吉中将に「個人としての意見と正確に正反対の決意を固め、其の方向に一途邁進の外なき現在の立場は誠に変なもの也、之も命(=運命)と言ふものか」と書いています。

>陸軍一の
華麗な軍歴を誇る杉山元帥はどんな勝算やプラン、見通しがあった
のでしょうか。

「まったく」ありませんでした。杉山陸軍参謀総長だけではなく、首相・陸軍大臣の東條英機陸軍大将を始め、海軍軍令部、海軍大臣は戦争の立ち上がりだけに夢中になり、今からでは信じ難い事ですがアメリカと言う史上最強の軍事超大国に戦争を仕掛けるに当たり、どんな戦争をするか、戦争がどうなったらどの様な方法で講和を持ちかけるか、それともどちらかが参るまで戦うか、、、そう言う中学生でも考えそうな超基本的な策を持たないで戦争を始めたのが当時の国の指導者たちでした。

杉山大将だけに絞ると、「すべて」部下任せ。良きに計らえ、と。江戸時代のバカ殿様ですね(笑)。そして「任せられた」部下たちも「戦闘」ばかりに夢中になって「戦略」などは頭に無い。だから日本はあんな惨めな負け方をしたのです。

マッカーサーは若い中尉の頃に初来日し、日露戦争を戦った大山元帥や乃木大将、東郷元帥などに会い、大変感銘を受けたそうです。同じ軍人として彼らの持つ愛国心と武士道精神に共鳴したのでしょうね。それ以来日本が好きになりました。

その後、太平洋戦争に勝利し占領軍最高司令官として再来日した時、「明治の将軍たちに較べると昭和の日本の将軍たちは人種が違うと思うほど程度が悪い」と言ったそうです。昔の言い方だと、「むべなるかな!」ですね。

ただ、杉山元帥について一つ言える事は、自分が参謀総長として始めた太平洋戦争に惨敗した責任と取り、大日本帝国陸軍の大将として昭和20年9月12日に拳銃で胸に四発撃ち込んで自決。夫人も殉死。立派です。狂言自殺で大恥をかいた東條と大違いですね。

(下の写真)
東京を訪問した南京政府(日本軍が設立した傀儡政権)の長である汪兆銘を囲んで左から:
永野修身海軍軍令部総長、杉山元陸軍参謀総長、東條英機首相兼陸軍大臣、汪兆銘、一人飛ばして嶋田繁太郎海軍大臣。
(この四人が揃った写真はこれだけではないでしょうか?)

御質問への直接の回答としては、「何もありませんでした。」 以下、少々長くなりますが、、、...

agn********さん

2018/6/1108:16:59

3カ月で作戦終了(停戦)させて中国に集中しないとやばいと思ったんだろ。

eig********さん

2018/6/1010:59:16

ある程度の力をアメリカに知らしめ、アメリカ本土も被害に及ぶと思わせた上での、早期講和を狙ったのでしょう。
今の北朝鮮のやり方と同じ。

sin********さん

2018/6/1010:06:56

杉山元帥ほど先見の明があった人はいません。3か月で完了とは日本がアメリカに完膚なきまでに負けるということです。そこまで戦力の差を見極めていました。

wak********さん

2018/6/1010:04:19

戦争ではなく作戦と言う言葉を使っていることにご注目。実際、第1段作戦はそのくらいで終わっています。問題は、それが戦争の終結とは関係の無い軍事的な話にすぎないこと。またそれなら持たねばならない終戦までを意識した第二段作戦は影も形もなかったこと。つまり出口戦略自体が存在しない。国家戦略としても軍事戦略としてもね。昭和の日本の戦争は、総じてそういう非常識な運営になっているのです。
まあ杉山元参謀総長は、統帥部門のトップであり、本来の国家運営なら、それが彼の職分の限界であり、その答えで十分なのです。しかもその言葉はきちんと実現したのですから。ただし、当時、軍が統帥をはみ出して統治まで主導していたことを思えば、極めて無責任な発言ということになる。
国を担っている気分などなく、司司で自分の職分を尽くしてますって、まあ平時の官僚のポジション取り。昭和の高級軍人は、概ね軍服を着たキャリア官僚でしかない。杉山や永野は(東條も)その典型。
まあ杉山元氏は、正直な好人物なんでしょう。嘘はついてない。ただ戦時のリーダーにはダメダメですね。
日本がダラダラと世界戦争に関わったのも、負けた戦争を引きずって大被害を被る羽目になったのも、こういう官僚体質の指導者しか持てなかった不幸の成れの果て。明治憲法体制が制度疲労を起こしてしまったってことなんでしょう。やむを得ない。

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