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斎藤義龍と斎藤道三の間で裏切りの戦いが

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ID非公開さん

2018/6/1123:33:20

斎藤義龍と斎藤道三の間で裏切りの戦いが

ありましたよね、

息子がどうして親方である斎藤道三を
撃つために兵をあげれたのですか?

簡単に聞きたい事をまとめると、
息子が親方を殺す事になぜ兵は息子側に
ついたのかです、
普通はトップである親方に味方するもんじゃないかと…

歴史素人なので質問仕方が下手で
申し訳ないです

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mug********さん

2018/6/1201:03:05

義龍は道三の実の子ではないようです。道三の主であった土岐頼芸の側室「深芳野」が道三に下げ渡されてから産んだ子が義龍で頼芸の子だったようです。道三には分っていたことですが、義龍も気付いていたようです。

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hju********さん

2018/6/1209:21:48

親方、では意味が全然ちがいますよ。

道三には長井姓時代の息子隼人正がいて、義龍の黒幕です。

嫌な話ですが兄弟で父親を追い込み戦死に追いやりました。

ようは国政の主導権争いです。

glo********さん

2018/6/1201:35:05

義龍が道三の実の息子では無いというのは俗説に過ぎず、謀反のおりには「実父を討った」という汚名を逃れるため一色氏を名乗っていました。
当然ながら斉藤氏傘下の領主の大半が義龍についたのは合理的な理由があります。
斎藤道三は織田家と組んで、美濃・尾張から伊勢湾に繋がる商業ルートの開拓を目指したのですが、この時期の信長は尾張を掌握仕切れず、道三の望んだ尾張・美濃の商業圏形成は失敗します。
そのため越前の朝倉氏と組んで美濃・越前で商業圏を形成する事を望む勢力が道三に反発し、その旗頭になったのが義龍だったのです。

その後の信長の飛躍的な勢力拡大を知っていると、意外に思えるでしょうけど、少なくとも道三が信長と組んだときは、むしろ「見込み違い」だったのであり、その失敗により道三は実の息子の手によって敗死したと言ってもいいでしょう。

pqr********さん

2018/6/1201:18:35

この戦いには深い因縁があったらしく、まずは父道三が元々の土岐一族の地を奪った(下剋上)とする見方があって、それに加えて弟を可愛がった、義龍は側室の子だった、領国経営に失敗していた、遂に義龍を廃嫡したとする説が一般的です、この土岐氏も幾つかに(明智光秀など)分裂しているのですが、大多数は義龍側に味方したという訳です。

しかしその義龍も若くして亡くなっているので、土岐氏の盛大な陰謀という見方もできます、そして戦国時代は親子の争いも珍しい事でもありません。

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