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日本の大昔の頃にあった邪馬台国って、大分の宇佐とか中津にあったとされています...

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ID非公開さん

2018/7/2823:34:30

日本の大昔の頃にあった邪馬台国って、大分の宇佐とか中津にあったとされていますよね?

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pin********さん

2018/7/2908:31:38

「邪馬台国」って、一個の国名ではなく「30か国程の、倭国連合の総称ですから、宇佐とか中津とかも含まれているんでしょうね!」。

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num********さん

2018/7/2913:14:58

まあ、それ以外に考えられませんね。

kuw********さん

2018/7/2910:28:07

いいえ、安本という素人の戯言です。

奈良県桜井市にある「纏向遺跡」が「邪馬台国」です。

①中国人の地理認識

19世紀に至るまで中国人は伝統的に日本のある空間を九州から台湾に至る南北だと誤認していた。

したがって、「魏志倭人伝」からでは「邪馬台国」は特定できない。

後漢書倭伝には「邪馬台国」は中国南部の江南地方から東、海南島に近いと書かれている。

原文
「大較在會稽東冶之東 與朱崖儋耳相近」

「邪馬台国は、おおよそ會稽(浙江)東冶(会稽)の東にあり、朱崖儋耳(海南島)と近い」

海南島はベトナム北部のハノイの東方にあって、そこより近いとなれば「台湾」付近に「邪馬台国」があったと考えていたようである。

この地理認識は19世紀中ごろまで引き継がれて1850年に刊行された世界地図「瀛環志略」で、洋務運動(中国の近代化運動)をしていた徐継ヨは

「西洋の地図では、日本列島を朝鮮より北に置いているが、たまにしか訪れない西洋人が想像でによって描いたものであり、間違っている」

として実際より南に日本列島を置くように修正しました。




②隋書に記述

隋(581年 - 618年)の正史である「隋書」(636年成立)には「邪馬台国」の場所が畿内にあることが書かれています。


原文「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」

和訳「倭の都は邪靡堆にあるが、そこは魏志に書かれている邪馬台国である」

邪靡堆についてであるが、日本書紀には「倭(ヤマト)京」と表現されており地域としては奈良盆地を念頭して書かれていることから「邪靡堆」は「奈良盆地」と考えられる。


したがって「邪馬台国」は奈良盆地に存在したと想定できる。



③考古学の成果

奈良盆地に「邪馬台国」が存在する証拠として「纏向遺跡」がある。

弥生時代の一般的な集落では広場を中心として住居が放射状に建てられて農機具が出土するが、この遺跡は一定方向に巨大な建物が整然と建てられ土木用具しか出土しない従来とは異なる3世紀最大の「都市遺跡」である。

この遺跡の広さは300haと大規模であるが、3世紀の遺跡では最大で福岡にある「比恵・那珂遺跡群」のような最大級の遺跡と比較しても2倍以上と突出している。

さらに、外来系の土器も15%と比率が高く関東から朝鮮まで広範囲の土器が出土していることから「人とモノ」が集まる現在の東京のような大都市であることが判明している。

「桜井市纏向学研究センター」

http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html

④古墳時代

古墳時代とは「前方後円墳」が出現して全国規模で広がり奈良盆地に巨大な古墳が中心とすることから畿内を中心とする「大和王権」が成立した時代というのが
「定説」である。


他の地域では岡山県倉敷市の楯築墳丘墓(長さ72m)が最大規模であるが「纏向遺跡」には100m前後の墳墓が複数あり、突出した経済力が伺える。

その中でも最古の「前方後円墳」といわれる「箸墓」は長さ280mで体積でいえば「楯築墳丘墓」の百倍と突出して大きな古墳である。

「箸墓」の築造年代について歴博は古墳の周囲から出土した土器に付着していた煤や吹きこぼれのコゲなどを「炭素14年代法」という最新の科学的な年代測定法で測定したところ卑弥呼が亡くなった247年と同時期の240~260年代と結果が得られた。

▼国立歴史民俗博物館研究報告 第163 集 2011 年3 月

「古墳出現期の炭素14年代測定」春成秀爾ほか 172~173頁

「古墳開始期にかかわる桜井市纏向遺跡群出土試料などの炭素14 年代測定を系統的に実施した。

測定結果は日本産樹木年輪の炭素14 年代測定に基づいて較正し,土器型式および出土状況からみた遺構との関係による先後関係から,箸墓古墳の周壕の「築造直後」の年代を,西暦240~260 年と判断した。」


「箸墓」を画期として東は福島県会津の「杵ヶ森古墳」から西は佐賀県唐津市の「双水紫山古墳」に至る全国各地に「前方後円墳」が同時期に登場していることから、畿内を中心とする「大和王権」は3世紀前半には成立していたと考えられる。


以上のことから「邪馬台国」が「纏向遺跡」であることが判明していて歴博の春成教授は

「学会では邪馬台国論争には興味がない、なぜなら邪馬台国が畿内にあることで見解が一致しているからだ」


と語るぐらいである。


オカルト信者が動物学者の間では完全に否定された「ネッシー」を未だに存在する主張しているのと同じく、九州説を唱える人間は「変人」扱いされる存在なのである。

ある番組では九州説信者は「絶滅危惧種」と言われていた。

sss********さん

2018/7/2910:07:31

いませんね。

2018/7/2900:34:03

現在では、奈良県の纏向遺跡が有力視されてます。

kus********さん

2018/7/2900:27:04

一般的に有名なのは畿内説と九州説です。
私から見たらトピ主さんの仰るとおり九州説の方が以下の点から有力かと、、、。


・ 帯方郡から女王國までの距離を直線距離ではなく行程だと考えれば12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること。


・ 九州北部に比定される伊都国から、邪馬台国への行程において、投馬国や邪馬台国への旅程日数を合算しても「2カ月」であり、方角が「南」であるため。

・ 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること。

・ 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していること。

以上です。

逆に弱点も在ります。

・ 魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくいこと。

・ 奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは、大月氏国が10万戸の人口40万人、また考古学では当時の日本の人口が百数十万人とされている事などから、考えにくいこと。

・ 中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在していること。

・ 古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、これは1966年に佐原真らによって提唱され1975年に佐原本人が撤回した説で、過去の学史上の存在でしかない年代観であること。

などです。


邪馬台国の位置をめぐる説は他にも在り(九州王朝説、四国説、東遷説)今日に至るまでどれが正しいかはっきりしていません、、、。

それがまた面白いのかもしれませんね~~

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