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藤原秀郷が平将門を討ったのに坂野上田村麿のように征夷大将軍に叙せられなかった...

t04********さん

2018/9/222:43:14

藤原秀郷が平将門を討ったのに坂野上田村麿のように征夷大将軍に叙せられなかったのは相手が蝦夷でなく高貴な家系の出だったからですか?独立国家を宣言した国家的犯罪者を倒したのだからもっと

評価されてもいいと思うがやはり平将門の祟りを朝廷は恐れたので割を食ったということでしょうか?

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knz********さん

2018/9/310:17:26

律令官制での大将軍は中国と異なりあくまでも臨時官です。平将門の乱の時は天慶2年正月に正4位下参議兼右衛門督藤原忠文を征東大将軍に補任して、将門追討の最高責任者とします。忠文は68歳の降霊でようやく前年に参議に昇進したばかりで、地方官の経歴はありますが、東海・東山道のそれは経歴しておらず、適任者といえず、中央にはそれだけ人材が枯渇していたことを示します。
そこで、朝廷は関東に居住している留住貴族(本来は教徒に居住して朝廷に仕える貴族でしたが、地方官(守・介等)を経歴後、その地に居住するようになり、戸Kを基盤として地方と中央を往復することで、勢力を保とうとした貴族及びその子孫。将門のその類です)が地方において私兵を養い、基本的な武力勢力となっていたので、恩賞(官位の授与)を餌とした餌将門追討太政官符を発布して、彼等を追討武力としたのです。この最有力者が藤原秀郷です。秀郷は反乱終了後に、従5位下から従4位下と4等昇叙しています。

大将軍に中央貴族が補職されるには先例からいって当然です。なお、蝦夷征伐ではないので征夷大将軍ではなく、征東大将軍となったのです。

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ski********さん

2018/9/309:18:51

秀郷は姉の息子である平貞盛の仇討ちを助けただけです。

義兄国香を殺した将門への復讐ですから、国は関係ないでしょう。

2018/9/223:07:26

征夷大将軍って、これを大した地位に仕立て上げたのは徳川家康。もちろん、その前に源頼朝、足利尊氏らにもよる。
この時代の征夷大将軍はそんなにエラくない。

在庁官人が、功により 従四位下で下野守、武蔵守、鎮守府将軍なら上出来でしょう。

ちなみに、
平貞盛 従五位下 丹波守 陸奥守 鎮守府将軍

nic********さん

2018/9/222:48:50

征夷大将軍は、その都度微妙に名前さえ変わる臨時に置かれる極めて存在感が無い役職です。
それに対して鎮守府将軍は常設で、当時は「将軍」といえば鎮守府将軍を指し示していました。

hoj********さん

2018/9/222:46:40

めちゃくちゃだな。
坂上田村麻呂ね。
「征夷大将軍」は異民族討伐するひとのこと。別に最高権威ではない。

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