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関ヶ原の戦いでの、上杉景勝勢を「西軍」とするのは適切なのでしょうか?

kok********さん

2018/10/1421:49:22

関ヶ原の戦いでの、上杉景勝勢を「西軍」とするのは適切なのでしょうか?

大河ドラマ「天地人」では、上杉家の宰相直江兼続と豊臣政権の奉行石田三成が協力して徳川家康に戦いを挑む、というストーリーでした。他にも、この時期の上杉家と三成が協力し合うという筋書きは小説やゲームなどでも見かけると思います。しかし、実際の関ヶ原の戦いにおいて、三成と上杉家が示し合わせて動いていたという根拠はないようですね。

関ヶ原の戦いで上杉勢は東軍か西軍かと問われれば「西軍」として扱われることが多いと思います。しかし、これは適切なのでしょうか?
三成や毛利輝元らと上杉は、家康を敵とするところは一致していますが、その背景は違います。上杉は豊臣政権に対しても不満を持っており、上杉の会津への帰国は、いわば「豊臣連盟からの脱退」というべきものに思えます。そして徳川からの言いがかりに直江状(実在しない?)を送り、徳川と戦うつもりだったのでしょう。

徳川に対し、石田三成ら「西軍」が「会津征伐に正当性はない」として挙兵します。上杉にとっての助け舟という意味合いもあったと思いますが、上杉勢にとっては「そっちが勝手に挙兵しただけ」だったのかもしれません。
むしろ上杉は、徳川が攻めてきたら迎撃するための万全の備えを用意していました。そして力を高めるため、まずは領土を拡大して奥州を制圧するつもりだったのが、西軍の挙兵によって徳川は引き返していき、関ヶ原での西軍の敗北によって、徳川が一気に優位となってしまい、計画がパァになった、と思っている可能性もあるのではないでしょうか。

もし関ヶ原の戦い後に上杉にインタビューしたら、「上杉が関東に攻め込んで家康を挟撃?そんなの聞いてない。約束を破ったとも言われるけど、そもそも約束なんてしていない」という声が聞こえてきそうです。

上杉勢は「西軍」とは分けて考えるという見方はありでしょうか?
歴史に詳しい方、ご意見をお願いします。

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kan********さん

編集あり2018/10/1614:44:31

上杉景勝は「西軍」です。

会津征伐に致る経緯には、確かに古い俗説の石田三成との共謀は見受けられません。むしろ上方にいないため政治的に追い込まれたといえるでしょう。直江状後も一度は上洛を決意したものの、讒言人の糾明が受け入れられず、上洛を拒絶します(慶長5年6月10日上杉重臣宛景勝書状)。直江兼続の妻子を江戸に差し出すことなどの条件(年月日不詳浅野長政宛浅野幸長書状)も受け入れられなかったのでしょう。

その後、会津征伐の無効などを掲げて西軍が上方で挙兵すると、景勝はこれと連携します。景勝は征伐軍が引き上げると、最上攻めに兵を向けるため、領土拡張説などが専門家の間でも唱えられました。しかし一次史料を追うと、景勝が背後の最上や伊達を屈服させ、西軍に命じられた関東侵攻を実現しようとしていたことは明らかです。

直江兼続の書状を見ていくと、西軍の挙兵を知った当初は伊達政宗に奪われた白石城の奪還を計画しています。しかし、西軍から関東侵攻を命じられると、「伊達や最上の手当をしたら関東へ攻め込む」方針に転換しています(8月25日付奉行衆宛景勝書状)。これはリップサービスであり、勝手な領国拡大を目指そうとしたのが本音だという見方があります。光成準治氏が『関ヶ原前夜』で「景勝・兼続の本音は奥羽・越後を瀬敦、一大領国を形成すること」と推測したことが歴史に詳しい人たちにも影響を与えています。ところが、こうした見方を否定する研究(阿部哲人「慶長5年の戦局における上杉景勝」、福島県文化振興財団『直江兼続と関ヶ原』)もあり、文庫版では戦況次第で関東に侵攻することまでは否定していないと追記しています。

9月3日付で直江が本庄繁長に宛てた条書には上杉の狙いがはっきり現れています。まず、伊達との和睦について「公儀(西軍)さえよければ結ぶように」と指示しています。次に「関東出陣の時、伊達政宗に同陣させるか、そうでなければ家老3~5人に3~5千を率いさせるようにし、戦況が思わしくなくても関東平定まで裏切らないようにさせるべきだ」「最上も同様である」などとしており、景勝が上方に書き送った戦略は、家中でも指示されていることがわかります。西軍を公儀とみなしている点も重要です。

関東侵攻の準備も進めています。直江は旧宇都宮氏領での諜報活動を任せた結城朝勝に対し、「下郡」(伊達・最上との境界)の仕置が済み次第、そちらへ出馬するとし、その時に百姓たちに蜂起させるよう指示しています。
越後一揆に関しても、直江は「(堀)久太郎は上方からの触れ状でこちら次第の様子である。溝口と村上ももちろんのことである。侍の筋目は公儀(西軍)にあるので両者の所領では一揆は行わず、それ以外(堀領)では状況次第で命じるように」とあるように、「公儀方」(西軍)であるならば攻撃はしないよう命じています(8月4日付山田喜右衛門宛直江書状)。

このように家臣にリップサービスをしても仕方ないので、関ヶ原において上杉氏は西軍の戦略に基づいて、伊達・最上を従えたら関東侵攻を計画していたとみるべきでしょう。

質問した人からのコメント

2018/10/21 16:30:56

回答ありがとうございます。関ヶ原の戦いは三成と上杉が「共謀」して起こした戦いではないが、関東に攻め入るなど「連携」はしていたのですね。
余談になりますが、専門的な書籍に目を通していて、また礼節をもって回答をしてくれるkanさんにBAが集中する形になっていますが、客観的に回答をしてくれている多くの回答者様の皆さんにも感謝しています。また質問につきあってくれるとうれしいです。

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kok********さん

2018/10/1522:43:35

考えたのですが上杉家への見方や扱いは
石田、上杉、徳川でそれぞれバラバラに見えます。

●徳川
江戸時代のいわゆる徳川史観で描かれた「石田軍記」では
石田三成と上杉家の共謀説が書かれているので
もしかして徳川家から見ると上杉軍も西軍も敵と言う点では
同じのため西軍とひとくくりに見えるのではないでしょうか。。。

●石田(西軍)
内府違いの条々で会津征伐を批判しそれを行う徳川家康を断罪しています。
少なくとも石田三成から見て上杉家は友軍であり
西軍と見ていたように思えます。

●上杉家
最近の関ケ原の研究書籍を見ると豊臣政権や石田三成とは別に
単独行動していたように思えました。
中央の政争に嫌気が指し西軍と共通の敵を徳川家康としながらも
自軍の運営に領土拡大を狙っていたように見受けられます。
なので上杉家としてはそこまで西軍に偏りは無く
上杉軍として動いていたのではないでしょうか。。。

ghy********さん

2018/10/1519:01:19

ただ、その後の処遇をみると完全に西軍の扱いなので。
やはりそうなのでは。。家康がどう見たかを一応の結論とするしかないかも。不運な武将でした。

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