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武田信玄は山本勘助を失った際に、次に頼りにした軍師はいたのでしょうか。

syo********さん

2018/11/1612:58:08

武田信玄は山本勘助を失った際に、次に頼りにした軍師はいたのでしょうか。

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川崎さん

2018/11/1709:00:15

山本勘助の武田家中での役割は、北信濃方面で活躍した足軽大将であること以外、ほぼ謎です。
つまり、山本勘助が軍師とか参謀である説は、現在はほぼ否定されています。

では武田信玄の、1561年以降の戦略について考えてみます。
『甲陽軍鑑』には、武田家の戦略については四名臣が携わっていたとされます。
内藤昌秀(昌豊)は、どこを攻めるか、
山県昌景は、攻めるタイミング、
馬場信春は、どのような戦法・方法で攻めるか、
高坂昌信は、敵の内情の調査と、延期、中止、退却するタイミング
を、それぞれ担当したとされます。

というわけで、信玄は軍師や参謀的なポジションに一人を置くのではなく、優秀な人材にそれぞれの担当を持たせていたようです。

なお、真田幸隆(幸綱)の活動のほとんどは北信濃から上野に限定されます。
そして、砥石城、松尾城、箕輪城、岩櫃城などに在城しており、信玄のそばにはほとんどいません。

ですので、武田家臣の勤務実態を知らない人が、根拠もなく、「真田幸隆は頭いいから軍師に違いない!」と適当な回答をしてきますが、騙されないように注意してください。

質問した人からのコメント

2018/11/22 21:50:26

真田はそれに外様ですからそんなに昌幸以外はそんなに親密ではないでしょうね。

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ibv********さん

2018/11/1720:20:08

山本勘助が軍師だったのかどうかは定かではありませんが、第4次川中島の戦い以降に武田家で「軍師」という役割りを担っていた人物はいないと思います。

しかし「甲陽軍鑑」では馬場信春が若い頃に山本勘助から築城の指南を受けたとする記述があるそうで、実際に馬場は後に築城の名手と呼ばれるようになりました。


つまり軍師を置かなくても、在りし日の勘助と接し、勘助から学んだ武田家臣達がそれぞれの方法で信玄を支えていったのではないでしょうか。

nad********さん

2018/11/1619:10:52

参謀としては真田幸隆でしょう。
調略の天才として活躍しています。
あとは信玄の衆道であり高坂昌信も軍師に近いでしょう。
やはり高坂昌信が一番でしょうかね。

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