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新田義貞が鎌倉に攻め来んだときですが、足利尊氏の子供を奉じていたので兵が集ま...

dyw********さん

2018/11/3015:46:24

新田義貞が鎌倉に攻め来んだときですが、足利尊氏の子供を奉じていたので兵が集まったのですか。

新田だけでは兵が集まったかどうか怪しいのですか。

補足河内国から勝手に帰った新田義貞は六萬貫といわれる負担金を出せ。と言われた話がありますね。
勝手に帰ったので、六萬貫で許してやると言うような意味合いだったそうですけれど。
当時の六萬貫は、かなりの額なので、その絡みで破れかぶれで出陣したというような説もありますよね。
御家人の兵糧とか軍馬、遠征費なども宋銭のような貨幣が必要だったのですね。

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jun********さん

2018/11/3022:34:28

新田義貞の自前の勢力は、江戸時代の石高で言えば、
数万石程度の力しかありません。
だから、兵を起こしても果たして、北条氏に対抗できるか覚束なく、
周辺の武士達は形勢を観望しています。

しかし、北条家も新田勢を侮って、少ない人数の兵しか、
鎮圧に送りませんでした。
その結果、分倍河原などいくつかの合戦で連戦連勝し、
新田勢は急速に膨れ上がります。

そこへ、足利氏の嫡男、千寿王が鎌倉で人質となっていたのを脱出し、
新田勢と合流した事で、更に兵が膨れ上がります。
足利氏は北条家と数代に渡り、姻戚関係にあって、
鎌倉幕府のナンバー2の実力を有していますから、
足利が鎌倉を攻めるなら、北条の滅亡は必至だと思う武士が続出し、
大勢が決したのです。

  • jun********さん

    2018/12/323:00:59

    鎌倉時代後期になると、貨幣経済が徐々に浸透し、
    畿内周辺では赤松氏や楠木氏のように、
    農業収入のみに依存しない武士も登場します。

    その点、関東はまだまだ遅れていますが、
    それでも、遠征などには兵糧や武具の調達など、
    膨大な資金が必要です。
    だからこそ、経済力の乏しい新田氏より、
    裕福な足利氏の方が、人望があった訳です。

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hir********さん

2018/12/223:29:56

>新田義貞が鎌倉に攻め来んだときですが、足利尊氏の子供を奉じていたので兵が集まったのですか。

はい。まず間違いなくそうです。

>新田だけでは兵が集まったかどうか怪しいのですか。

はい。間違いなくそうです。

新田義貞の新田家は由緒正しき河内源氏義国流新田氏本宗家に当たります。
義貞はその8代目当主に当たります。
しかし新田家は、4代目当主の新田政義が鎌倉幕府から預けられていた囚人に脱走を許すわ、京都大番役として在京中に幕府に無許可で朝廷に昇殿と検非違使への任官を求めたりと、軽挙妄動により新田氏を没落させてしまいました。
そしてその為に新田本宗家は鎌倉時代の歴史書の『吾妻鏡』にも登場しないような一地方御家人に零落してしまっていました。

一方足利氏は、代々の当主が北条家から正妻を迎える(一部例外あり)などその勢力を保って来ました。
先の新田政義の件でも政義の妻が足利家3代目当主の足利義氏の娘という縁から、義氏の働きかけで所領の一部と惣領職を没収されたのみの寛大な処置で済ました。

足利尊氏の正妻の「登子」は「赤橋守時」の妹でした。
赤橋守時の赤橋流(家)は6代執権北条長時を祖とした一族です。
北条氏惣領の家系である「得宗家」に次ぐ高い家格を有していました。
実権は元執権の北条高時や内管領の長崎高資(長崎円喜の息子)に握れれていたとは言え、第16代の鎌倉幕府最後の執権に就任していました。
そして彼の弟の「北条英時」は鎌倉幕府の九州の統括機関である鎮西探題の長官でした。
足利家がいかに北条家と密接な関係にあったかがわかると思います。

ただ、足利家は北条家と同じ「御家人」です。
両家の関係は、本来なら源頼朝などの源氏に仕えた同じ同僚であるに過ぎないのです。

しかし鎌倉幕府における将軍家の源頼朝の直系の血縁が絶えた後に執権役の北条氏が台頭し、他の有力御家人は謀略などで次々と排除され、実際には北条氏と他の御家人らの関係は従属関係にありました。
足利家もその1つだった訳ですが、やはり源氏の血縁者の家柄としての御一門であり、他からは一目置かれる存在ではあった訳です。


また、新田家と足利家はもともと源義国を父に持つ兄弟関係の家柄でした。
新田家の方が兄なのです。
しかしその力関係は先に書いた通り逆転してしまっていました。

更に新田家と足利家に領地は隣り合っており、その間に渡良瀬川がありました。
両家は長年に渡り確執がありましたが、特にこの川の水の利権をめぐる争いは激しいものでした。
特に足利家は、干ばつ時には足利領だけに水が流れるように用水路を作り、逆に洪水時には堰を切って新田領へと水をあふれ出させるといった様な理不尽なことも平然と行っていました。
しかも新田家側からの幕府や役所に対する訴えは、ことごとく足利家に有利な裁定となるのが実情でした。

両家の力関係の差は歴然でした。
この様なことから新田氏は足利氏に事実上従属している関係だったという説も唱えらています。

ですので鎌倉幕府時代末期のこの時代、新田義貞も没落したままの弱小勢力となっていたんです。
新田義貞の「鎌倉幕府打倒」の呼びかけだけにに応じその軍に参加する勢力などまずありえなかったと思われます。


また、先の通り「新田氏は足利氏に事実上従属している関係である」という説から、新田義貞の反乱自体も足利尊氏による命令であったという意見もあります。

しかし先に書いた通り、新田家と足利家は、長年に渡り水利権などを始めとして確執状態にありました。
「足利尊氏からの」命令だけでは新田義貞も素直に従わなかったでしょう。


足利尊氏から新田義貞への出陣要請の書状はおそらくあったでしょう。

(1333年)
4/29

足利尊氏は京都北方の丹波篠村にて鎌倉幕府打倒を表明しました。

この時に足利尊氏は、特に源氏ゆかりの地方勢力へ鎌倉幕府への反乱を呼びかける書状を送りました。
またこれには後醍醐天皇からの「鎌倉幕府打倒」の「綸旨」の写しが添えられていました。
つまり「足利家」=「足利尊氏」が「源氏の棟梁」として「鎌倉幕府打倒」の総大将であるという演出を行った訳です。

5/8

まだ六波羅探題陥落の情報を知らない状態で新田義貞は、上野国(群馬県)新田荘にてついに討幕の挙兵を行いました。
この時は新田勢はわずか150騎でした。
(実際には他に歩兵部隊もいたでしょう。)
新田軍は上野国守護代のの長崎孫四郎軍を破って進撃を開始しました。

ただ奇妙なのがその後です。

5/8の夕刻、もしくは翌日の5/9

越後国(新潟県)などに割拠する新田一族の軍勢ら2000騎が合流しました。
どう考えても合流が早すぎるのです。
つまり逆算すると新田義貞の挙兵決断前にすでに越後を出発していた事になります。

その為 伝説にて、越後国に割拠する新田一族らの元に山伏たちが現れ

「義貞公が挙兵を決定したので急ぎ出撃せよ」

と伝言して廻ったとも言われています。

まだ『挙兵決断前』なのに一体誰の命令なのか?
ミステリーです...。

そして更にほぼ同時に信濃国(長野県)の源氏勢5000~6000騎も合流して来ました。
越後の新田一族が同族として新田軍に早期に合流したのはまずわかるとしても、
一地方の御家人に零落してしまっていた新田家の呼びかけに信濃国源氏勢が早期に合流しようとするとは思えません。


ただ先に足利尊氏が後醍醐天皇からの「鎌倉幕府打倒」の「綸旨」の写しが添えて各地の源氏勢力へ鎌倉幕府への反乱を呼びかける書状を送っているタイミングから考えると、越後国の新田一族にもその書状が届けられていた可能性が高いのではないかと思われます。

そして足利尊氏の呼びかけの書状が届けられていて、更に新田軍へと参加するようにと指示されていたのなら、信濃国源氏勢の早期参加も納得できる気がします。


そして新田軍が更に南下し利根川を渡って武蔵国に入る頃、
上野国と武蔵国の境の児玉(現、埼玉県児玉郡)であったと言われています。
200人程の家臣たちに守られた足利尊氏の嫡男・千寿王(後の足利義詮、当時はまだ3歳)が新田軍に加わりました。

新田軍に足利尊氏の嫡男が加わったという情報は周辺の諸豪族勢力にはインパクトがあったようです。
田舎の小勢力の新田義貞が総大将では従えないが、まだ幼子とは言え源氏の名門足利家の嫡男が名目上とは言え足利高氏の代理人として総大将を務めるなら話は別です。
足利の家臣たちも積極的に「軍の総大将は千寿王」と宣伝しました。
これを受けて、上野、下野、上総、常陸、武蔵らの関東諸豪族勢力20万余騎が続々参戦を決意したと言われています。
(太平記の軍勢数の誇張は激しいですから実際は数万人位か?)

ただこれらの勢力が合流して来るまではまだ間がありました。

5/12
「小手指原の戦い」
現在の埼玉県所沢市小手指町付近で桜田貞国を総大将とする幕府軍を撃破。

5/13
「久米川の戦い」
現在の東京都東村山市にて桜田貞国を総大将とする幕府軍を再度撃破。


5月15日
「分倍河原の戦い」
現在の東京都府中市にて幕府軍と激突。

しかし幕府軍には北条泰家を大将とする10万(実際は10000程か?)の軍勢が援軍として新たに加わっていました。
新田軍はここで初めて劣勢の状態で幕府軍と戦うことになりました。
そして戦いは北条泰家軍の優勢な弓兵部隊の活躍で新田軍の敗戦となりました。

新田軍は負傷者が続出した状態であり、もしもこの時に幕府軍から徹底した追撃を受けていればすぐに再起できなかったかも知れません。
しかし勝利に浮かれる幕府軍は追撃せずに宴会まで開いていた始末であり、その為に新田軍は命拾いしました。

しかし劣勢の新田義貞は苦悩していました。
ところがそこへ相模国(神奈川県)の三浦一族6000機(人?)を率いた
「三浦義勝」がやって来ました。

実はこの三浦軍は幕府からの命令で幕府軍に参加する為に出陣したはずでした。
しかし三浦義勝は同時に後醍醐天皇からの幕府打倒の綸旨を受け取ったからと新田軍へと合流して来たのです。


翌5月16日

前日に降っていた雨の影響で朝靄の霧がが立ち込める中、
三浦軍は幕府軍に接近しました。
幕府軍も三浦軍が援軍に加わるという知らせを受け取っていましたので、ゆっくり進軍してる三浦軍の接近を許してしまいました。
そこを三浦軍に奇襲され、これに合わせて新田軍も攻撃に加わりました。
それにより幕府軍の優勢な弓兵部隊も即座に壊滅して幕府軍は敗走し、戦いは新田軍の大勝となりました。

ここで

三浦義勝についてですが、実は彼は足利尊氏から三浦氏に養子に送り込まれたという経緯がありました。
その為にこの三浦義勝軍の新田軍への参戦は足利尊氏からの指示ではなかったのかという説もあるそうです。
まぁ全くあり得ない話ではなさそうですね。

この様に新田軍への足利尊氏の影響力は多大にあった可能性があるみたいです。


そしてこの「分倍河原の戦い」後、新田軍には先の日見和をしていた関東の諸族が続々と加わり総勢60万7000騎になったとも言われます。

「分倍河原の戦い」の新田軍勝利の情報もあるでしょうが、おそらくこの頃には京方面の六波羅探題陥落の情報が関東にも伝わった事もあるのでしょうね。


7月18日朝
新田軍は3方から鎌倉へ攻め込みました。

しかし鎌倉は、一方を海、三方を山に囲まれた地でした。
その山を削って道を通してある7つの「切通し」の道が進入路でした。
そしてその為に防衛にとても適した地でした。

そしてその為に大軍で包囲した義貞も攻めあぐみました。

しかし

7月21日夜半
天文学者の計算によるとAM2時58分。
稲村ケ崎に干潮により干潟が出現し、新田軍がそこの突破に成功し鎌倉市内へ突入。

翌22日
東勝寺において北条高時ら北条一族と家臣ら1153名が自害

鎌倉幕府は滅亡しました。

nic********さん

2018/11/3017:56:14

そうです。
足利千寿丸が加わってから雪だるま式に軍勢が増えましたからね。
もともと、新田義貞も足利尊氏の指示で挙兵するまたは尊氏軍の到着に合流するはずだった可能性が高いと思います。

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