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一橋徳川家の創立段階における石高の変遷についての疑問があります。 徳川 宗...

qwd********さん

2018/12/2214:59:51

一橋徳川家の創立段階における石高の変遷についての疑問があります。


徳川 宗尹(とくがわ むねただ)(一橋徳川家の初代当主。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%B0%B9

(↑)このページによれば、概要 の所で、
享保20年(1735年)、3万俵を賜り別家して一橋徳川家を創設した。順次加増され、延享3年(1746年)には10万石となった。

となっており、さらに 経歴 の所で、
※日付=旧暦
1735年(享保20年)9月23日 - 元服して宗尹と名乗り、徳川姓を称する。従三位左近衛権中将兼刑部卿に叙任。3万俵を賜る。
1737年(元文2年)10月18日 - 2万俵の加増。
1740年(元文5年)11月18日 - 江戸城一橋門内に邸を賜り、1万俵加増。
1741年(寛保元年)11月25日 - 一橋邸を定住とする。
1746年(延享3年)9月15日 - 10万石を賜る。

となっており、

どちらも、

享保20年(1735年)に、3万俵、その後順次加増されることになり、

1737年(元文2年)10月18日 - 2万俵の加増。で、

元文2年(1737年)に、2万俵の加増で、計、5万俵

1740年(元文5年)11月18日 - 江戸城一橋門内に邸を賜り、1万俵加増。で、

元文5年(1740年)に、1万俵の加増で、計、6万俵

そして、1746年(延享3年)9月15日 - 10万石を賜る。

となっております。



しかし、一方、(↓)この 一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)のページでは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%A9%8B%E5%BE%B3%E5%B7%9D%...
“概要” の所で、
宗尹は、元文2年(1737年)に賄料を現米2万俵に改められ、同5年(1740年)に一橋門内に宅地および賄料1万俵を加増され、一橋家を興した。延享3年(1746年)、新規に賄料領知10万石を武蔵・下野・下総・甲斐・和泉・播磨・備中7か国のうちに与えられ、高10万石となる。

となっており、つまり、このページでは、

元文2年(1737年)に賄料を現米2万俵。

同5年(1740年)に一橋門内に宅地および賄料1万俵を加増され、計、3万俵

延享3年(1746年)に10万石

ということになります。


(↑)これらの上記の2つのページでは、延享3年(1746年)に10万石という、一橋徳川家の最終石高は同じですが、

そうなるまでの、一橋徳川家の創立段階での過程の石高が違います。

一橋徳川家が創立される過程での石高の変遷の様子は、この上記の2つのページ(↑)の内の、どちらが正しいのでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

thk0000001さん

2018/12/2302:01:59

『一橋徳川家』wikiには、【この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年5月)】とありますが、
『徳川宗尹』wikiには、それがありません。
いまのところ、『徳川宗尹』の方といえるかと。

ほかの資料では下記の様にあり、賄料などは書かれていません。
・宗尹は1735年(享保20)に元服して徳川を名のり、
40年(元文5)江戸城一橋門内に屋敷を与えられた。
ついで1746年(延享3)に10万石の領地を給せられ、
将軍の家族の一員として待遇された。

・後嗣を出す資格を有する。家格は徳川御三家に次ぎ、所領は10万石。
延享3(1746)年、新規に賄料領知10万石を武蔵・下野・下総・甲斐・和泉・播磨・備中7ヵ国の内に賜わる。

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