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日蓮大聖人の御書の中で、 宝軽法重事 御供養の筍は120本。法華経は仏の滅後20...

hkk********さん

2018/12/2920:02:35

日蓮大聖人の御書の中で、

宝軽法重事
御供養の筍は120本。法華経は仏の滅後2000余年にあらわれた。布施は軽いけれども、その志が重い故に、この法門を申し上げたのである。

今は農繁の時であり、また大宮造(神社などの社殿を造ること)もあって民の忙しい時である。御心が深いので、前代未聞の法もあらわれていることであろう。恐恐謹言。


窪尼御前御返事(孝養善根事)
御供養の物、数のままに確かにいただきました。今は五月の頃で、民も農作業に忙しく、そのうえ大宮浅間神社の造営も行われており、
このような多繁な折に、身延の山中の有り様を思いやられ、御供養の品々をお送りくださったその御志は、まことに深いものがあります。


上野殿御返事
この身延の沢は、石などは多くあるが、供養された石のように干したいもがしらはない。そのうえ夏のころなので民の暇もないであろう。
また御造営といい、多忙であろうのに、山里のことを思いやられて送っていただいた。


のように信者さんから供養や布施をいただいた時に、農作業や神社の修理造営の忙しいだろうと心配りや感謝を述べている。
しかし、神天上の法門からすれば、神社には悪神や悪鬼がいるので、神社の修理造営を良くないから止めるようにというのが筋だと思うが、
これは、御成敗式目の第1条、可修理神社專祭祀事 (第1条:「神社を修理して祭りを大切にすること」)を大聖人は認めているからだと思います
なので、大聖人は祭りも大切にしていたはずです

日興上人も祭り(御成敗式目)を大切にしていたと思います
なぜなら、日興上人は実相寺大衆愁状をお書きになっており、
実相寺大衆愁状は、御成敗式目の51か条にまねて、51か条の幕府への寺の改善の懇願書だからです。ちなみに実相寺大衆愁状をお書きになられたのは日蓮大聖人の弟子になってからです。

祭りがいけないとか、随方毘尼(ずいほうびに)より、有力だと思います。

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tom********さん

2018/12/3018:54:38

日蓮の神天上法門、例えば立正安国論には、
「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神国を捨てゝ相去り聖人所を辞して還らず。是を以って魔来り鬼来り災起り難起る」
とありますが、
「神社に行ってはならない」
なんて事は日蓮は一言だって言っていません。

大石寺系以外の教団は「人々が正法に帰依しないから、世の中に災難ばかりが起きるのだ」とあるのに際して「であるから、神々に正しい信仰の祈りを捧げて、悪鬼を破るのだ」と解釈しています。つまり、神社に詣でることは禁じません。
大石寺系のみが「であるから、悪鬼乱入の寺社に物詣でに行くなど謗法だ」なんて逃げ腰姿勢ですね。
本地垂迹に基づけば、法華経を本地とするかぎり、神社だろうと何処だろうとそれ以外の全ての仏菩薩は法華経守護の垂迹神ですからね。


日興のいくつかの遺文にあるとされています。
遺誡置文「檀那の社参物詣でを禁ずべし何に況や其の器にして一見と称して謗法を致す悪鬼乱入の寺社に詣づべけんや返す返すも口惜しき次第なり是全く己義に非ず経文御鈔等に任す云云」
五人所破鈔「何ぞ善神聖人の誓願に背き新たに悪鬼乱入の社壇に詣でんや」
どっちも正本はありませんね。果たして、本当に日興はこのような事を言ったのでしょうか。


日蓮遺文を読む限り、日蓮上人の主張は「法華経とその教主釈尊を本地としなさい」と言うことだけです。
法華経と釈尊が本地の座にあるかぎり、垂迹神として何を拝もうが自由である、と解釈すれば矛盾はありません。

実際、日蓮は「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」と伊勢神宮にて誓願したわけです。
悪鬼乱入の寺社だとすれば、日蓮の取った行動は矛盾しませんか?


それと、貞永式目の件については、どうでしょうね。
日蓮は法華経と釈尊を本地とせず、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗、大日如来を本尊とする真言宗を目の敵にしています。
日本は古来より神仏習合し、多くの宗派が共存共栄してきたんですから、その足並みを乱す姿勢は、一条、二条の精神に背いていた、と言えるんではないでしょうか。

むしろ、あれほどに他宗非難を繰り返しておきながら、流罪で済まされた事は幕府の恩赦あったからではないでしょうか。
龍ノ口刑場での奇跡をもって、大石寺系では発迹顕本なんて言っていますが、日蓮遺文に照らし合わせる限り、法華経本化の垂迹、上行菩薩の再往日蓮大菩薩、とする日蓮宗のほうが妥当であると思います。
実際、日蓮は万年救護本尊の讃文には「後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」と書いたようですし、自ら随所に「法華経の行者」と述べていますしね。
また、法華経神力品をどう読んでも、末法には釈迦は無益であるとはなりません。

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tub********さん

2018/12/2920:39:14

時代と共に祭りの種類も多く、イベント化し、風習と成っています。
クリスマスなどは典型です。戦後に興隆し、日本独自の文化、イベントと
して定着したのです。クリスチャン以外の一般大衆はイエス〔神〕を祝い
ません・祈りません。宗教色も無く、イベント・祭りです。

なお、創価学会では、多くの種類の〔祭り〕の参加は自由です。神輿を担
ぐのも自由です。神社境内に並ぶ出店〔露店〕を見る、買う、食べる、遊
ぶのも自由です。

日蓮正宗〔日顕宗〕の随方毘尼の解釈、捉え方、定義が異常なのです。
世間・社会、地域と遊離し、人付き合い、人間関係も築けない自分等だけ
の世界観、ユートピア、範疇の域から出られないのです。
何でも〔謗法〕と断じて、禁じる。付き合わない、拒否する=人として恥
ずかしい事です。世間・社会に貢献する事を拒むのですから。

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