ここから本文です

前田利長に父の前田利家のように 徳川家康に対抗するような 気持ちはあったので...

the********さん

2019/2/1808:01:07

前田利長に父の前田利家のように
徳川家康に対抗するような
気持ちはあったのでしょうか?
また、戦うとしたら
関ヶ原の東軍のような兵が出陣して
三成が挙兵という流れになりますか?

閲覧数:
135
回答数:
5

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

img********さん

2019/2/2114:51:11

利家にしても「どこまで家康に対抗しようと思っていたのか」

利家夜話は信憑性が薄い書物で、実際には年下の家康が自身より官位も器も人気も上だった事に対する蟠りかなと思います

利長は、家康私婚問題後に利家と家康の和睦に動いています

ですから親家康派と言えますね

利家が伏見の家康邸を訪問する前と、家康が利家邸を訪問した後に直接家康と会っているか書状のやり取りをしています

上杉家の史料には、七将襲撃事件の黒幕は利長だ、と書いていますので三成と共闘して家康と戦う事はしないでしょう

この回答は投票によってベストアンサーに選ばれました!

ベストアンサー以外の回答

1〜4件/4件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

mas********さん

2019/2/1814:35:42

気持ちは有りましたが母芳春院に止められています。
勝てるはずはないと。
豊臣家より前田家の家名を守れという利家の遺言が有りましたから。

もし戦うなら三成に加勢したと思いますね。

yas********さん

2019/2/1814:33:08

父の利家は豊臣政権において五大老の一人として徳川家康に対抗する位置にあった。慶長4年(1599年)閏3月3日、利家が病死したため、その跡を継ぎ五大老の一人(及び豊臣秀頼の傅役)となる。その翌日に五奉行の一人石田三成が襲撃されるなど党派抗争が始まり、前田氏は対徳川の急先鋒的立場に立たされる。

家康は上杉討伐の前に前田に謀叛の疑いがあると因縁をつけて加賀討伐を画策したけれど利長に天下人の器量はないと見抜いていた母おまつが自ら江戸に人質になることを買ってでたのでママには逆らえず前田利長は家康の軍門に下りました。

家康に対して嫌悪感を抱いていたから関が原に近い加賀にいながら積極的に関が原に出陣しなかったのです。家康の天下取りに積極的に関与したくないのでサボたージュしたのです。

家康にしてみれば秀吉の盟友前田家が少しくらいサボたージュしても西軍に付かなかったので関が原で勝てたのです。

妄想ですが関が原のとき前田利長が大軍を率いて家康の背後突いていれば前田家の天下もあったかも知れません。

プロフィール画像

カテゴリマスター

qqm********さん

2019/2/1812:25:16

父利家の遺言は、兵を二つに分け、国許と大阪に残せということでした。
しかし、利長は、さっさと兵を国許に帰してしまいました。
戦をする度胸など無かったのですよ。
小心者です。

プロフィール画像

カテゴリマスター

jun********さん

2019/2/1812:21:21

ないでしょう。

前田利家という人は、加賀120万石が、明治維新まで、
残り続けたので、非難する人がおらず、
随分と美化されて描かれていますが。
その実績から窺える人間性は、かなり冷徹なリアリストです。

若い時に、兄から家督を奪い、北陸に領地を与えられれば、
情け容赦なく一向一揆の門徒を大量虐殺し、
賤ケ岳合戦では、兄のように慕っていた柴田勝家を裏切り、
北陸の太守になると、隣国の上杉景勝に、
さまざまな嫌がらせをしています。
もちろん、それらの行ないの多くには、
信長・秀吉の意向が働いたものと推察されますが、
そう言った汚れ仕事を、家の繁栄のためなら、
軽々とやってのけるのが、前田利家という人の実像です。

だから、幼い秀頼のために、家を賭してまで尽そうとは、
考えなかったでしょうし、息子に対しても、
そんな事は言い残さなかったと思います。

この質問につけられたタグ

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる