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その場合、大事なことは、 一人の人間が何にも存在しない状態へ 移ることをあら...

pho********さん

2019/2/2200:50:26

その場合、大事なことは、
一人の人間が何にも存在しない状態へ
移ることをあらわすのではなく、

必ず、ある制約条件から
別の制約条件への運動の感覚を

表すものにすぎなかったということです。

ある制約条件から解放されて
「自由になる」ということは、
別の制約条件を引き受けることでもあります。

何にもしないで
ぼーっと過ごすというのも、
ある制約条件に他なりません。

とても退屈してしまうかもしれないのですから。

つまり、自由とは、
そもそも単に運動を可能にするための
意思の発動手段であって、

けっしてそれ自体が目的でもなければ
価値なのでもありません。

それは、本来、
形容詞的、副詞的な使われ方をする言葉なのです。

ところがこれがいったん固形化して、
名詞として扱われるようになると、
だんだん事態が変わってきます。

プラトンは、2という数には2という「イデア」、
3という数には3という「イデア」がある、と考えました。

こんな考え方は、リンゴを二つ、三つと
数えている時は思い浮かびませんね。

ところが、「数」という概念が、
数えられていた「もの=リンゴ」から自立して成立すると、
こういう考えが浮かんでくるのです。

これと同じように、
「自由に(気楽に)」遊んでいた子ども、
「自由な(くつろいだ)」気分で手足を伸ばしていた人、

などから自立して、「自由」という概念が、
名詞として成立すると、

そういう「実体」が、
まるで遊ぶことや手足を伸ばすことから
まったく独立に存在するかのような気がしてくるのです。

これがプラトンの言う「イデア」です。
つまり「自由」とは、

言葉が固形化して出来上がった
「理念(観念、アイデア)」なのです。

一旦この固形化の方向が定まると、
それはどんどん人々の間で広がります。

そして、まるで、
「自由」という実体が確固としてあり、

しかもそれが、他の拘束された状態よりも
一段優れた神様であるかのような
「価値」として現れてくるのです。

つまり、「自由」というのは、
それが抽象的で、しかも実体であるかのような様相を示すので、
どこに当てはめても使えるという錯覚を呼び起こします。

実際、この言葉ほど便利な概念はないので、
先に挙げた言論、学問、職業、居住、宗教など、
近代の法では、至る所に使われ、

国民の言動をきわめて寛容に
受け入れているかのように見えます。

そもそも近代というのが、
「自由」というイデア=イデオロギーが
支配した時代なのです。

しかしこの「自由」イデオロギーが
かたくなに守っているただ一つの非寛容があります。

それは、「非寛容な信念や行動を許さない」という非寛容です。

でもそのことに、
「自由」イデオロギー信者たちは気づきませんでした。

誰もが、その生まれ育った土地の文化や伝統を背負っている。
そこから「自由」になることなどできません。

もし完全自由になったとしたら、
その人は、故郷と人間関係を亡くした裸の無名者です。

でもヨーロッパ人たちは、
自分たちが大きな文化や伝統を背負っていながら、
それから「自由」になれると錯覚したのです。

すべてのヨーロッパ人が、といっては、失礼ですね。
特に知識人や政治家と呼ばれるエリートの人たちです。

別に文化や伝統などと大きなものを持ち出さなくとも、
日々汗水流して働いている普通の人たちのことを
思い浮かべればすぐわかることですが、

彼らは、「何ものからも自由な自分」などを
実感するところから遠いところにいて、

ほとんどの時間を具体的な制約から
次の具体的な制約へと体を移しているだけです。

エリートたちは、普通の人に比べて、
相対的により広い、さまざまな対象に
気を移すことができるので、

そのため、普通の人よりは
あの抽象的な固形物としての
「自由」を実感しやすいだけなのです。

そうして、彼らはその「自由」を用いて失敗しました。

まさか自分たちが寛容であったために、
イスラム教徒のような非寛容な信念をもった人々や、
自分たちの文化にけっして溶け込まない人々が、
どっと押し寄せてくるとは!

気づいた時にはもう遅く、
自分たちの周囲にまだら模様を作って
異邦人たちが居を占め、

そしてけっして「自由な」対話など
成立させようとはしないようになっていました。

自分たちの土地の何分の一かを、
戦争よりは少しばかり静かに侵略しつつあることによって。

でもヨーロッパのエリートたちは、
まだその深刻な事態に
気づかないふりを決め込んでいるようです。

「多文化共生」という、
成り立ちようもない美辞麗句に
ひたすらかじりつくことによって。

何がこのインヴェージョンから自分たちを守るのか。

もちろん、まずは「自由」イデオロギーの呪縛から醒め、
その醒めた目をもって、国民国家という
枠組みの重要さにいったんは差し戻すことです。

東欧諸国がすでにそれを実行しているように。

「自由」は普遍的価値でも何でもありません。

このイデオロギーには、
何々を通して、何を実現させるの

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