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石田三成が大活躍した「朝鮮の役」について教えて下さい!

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ID非公開さん

2019/3/1202:10:25

石田三成が大活躍した「朝鮮の役」について教えて下さい!

石田三成ファンの方が石田三成が「朝鮮の役」の「碧蹄館の戦い」という合戦で、、、

1、「小早川隆景」にアドバイスし日本軍を勝利に導き大活躍した!
2、「小早川隆景」と共に戦い日本軍を勝利に導き大活躍した!
、、、と書かれていたのですが、wikiや資料を見ると私には真逆に見えました。

1、石田・大谷・増田ら奉行衆が籠城策を勧める中、城外での迎撃を決然と主張したのが立花宗茂、小早川隆景。
2、小早川・立花は石田三成たちと対立した。
3、石田たちは城に居り本戦には不参加。
4、この戦いの一方で三成たち奉行衆によって漢城近郊・龍山に兵糧を集めた所を明軍にその兵糧倉を焼き払われ、食料調達が最も困難なときに兵糧面で甚大な損失を出していた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%A7%E8%B9%84%E9%A4%A8%E3%81%AE%...

私の目には、むしろ石田たち奉行衆は日本軍の足を引っ張りまくりですし
兵站を担った者たちが「兵糧」を焼き払われるとか最悪に見えました。

お世辞にも「アドバイスし勝利に貢献!」や「共に戦って!」などといった風には
見えないのですが、、、これどう言うことなんでしょうか???
どう見れば石田三成は「碧蹄館の戦い」で大活躍したとなるのでしょうか???
教えて下さい。<(_ _)>

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hir********さん

2019/3/1712:31:58

>どう見れば石田三成は「碧蹄館の戦い」で大活躍したとなるのでしょうか???

無理です。(笑)

石田三成の役割は、
・遠征軍の監察
・補給などの後方支援の運営
・明国との交渉の調整

などであったと思われますから。


●「文禄の役」

文禄元年(1592)4月12日
日本軍1番隊の小西行長・宗義智隊が釜山浦(港)に上陸。

その後続々と後続軍も上陸して

5月2日夕刻~3日早朝、日本軍は首都の漢城を無血占領。

5月14日~、日本軍が1,2,3番隊が臨津江に続々と到達。
臨津江は漢城~平壌間の中間に位置する川で朝鮮軍の防衛線です。

5月27日~28日、日本軍が朝鮮軍を破り臨津江の渡河に成功しました。

5月29日、日本軍は開城を占領。

この戦況を受けて日本軍諸将は漢城にて会議を開き、朝鮮半島を8つにの担当地域(8道)に分けてそれぞれ攻略する事になりました。

6月8日、1番隊の小西・宗隊が大同江に到達。
大同江は平壌のすぐ南を流れる大きな川で朝鮮軍の平壌最終防衛線です。

6月11日、国王一行らは平壌から逃亡。寧辺へ向かう。

6月12日~、1番隊の小西・宗隊が朝鮮軍1万を破り大同江の渡河に成功。
朝鮮軍は平壌を放棄。北方の順安に撤退。

6月15日、1番隊の小西・宗隊が平壌を無血占領。
講和をにらんで進撃を停止。
そして平壌落城を知り、朝鮮国王一行らは昼夜兼行で中国の明と朝鮮との国境の町の義州まで逃亡。

また、2番隊加藤清正・鍋島直茂隊は、途中で1番隊と別れて咸境道地方(朝鮮北東部)に進撃し朝鮮軍を撃破して行きました。

しかし、8道の各方面攻略に向かった日本軍の前に立ちはだかったのは、朝鮮正規軍では無く、各地の朝鮮義勇軍兵たちでした。
朝鮮正規軍のオンボロぶりをはるかに凌駕する士気を持ち合わせ、それを率いる優れた指導者らも現れました。

特に「全羅道」₍朝鮮南西部)においては、
六番隊の小早川隆景は、激しい抵抗にあって全羅道の中心部へ全く侵入できない状態でした。

そして7月
中国の明の祖承訓の率いる援軍の先鋒軍5000程が到着し、明・朝鮮連合軍8000が平壌を攻撃しました。
しかし小西行長軍の反撃で大敗してしまいました。

これには明国も衝撃を受けたようで、今度は名将軍として誉れ高い李如松を大将にした4万数千もの大軍を派遣する事を決定しました。
しかし当時の明国では、同年の4月より「寧夏の乱」といわれる反乱が起きており、李如松もその鎮圧に派遣されていた為にすぐに大軍を送れない状況にありました。

明側はその為に時間稼ぎとして日本側と「講和条約の準備の為」として休戦を締結し、日本側も戦闘行為を停止しました。
元々最初から講和条約に乗り気であり講和交渉を主導した小西行長は、明国が時間稼ぎをしているとは全く考えていなかったようです。
漢城にての日本軍の会議においても、黒田官兵衛が「明軍を警戒して漢城に主力を集結させるべき」と意見しますが、
小西行長は「明軍の救援などありえない」と主張して平壌に戻ってしまっていました。全くの油断(間抜け)でした。


そして翌年1月、昨年の年末には明・朝鮮国境を越えていた李如松が率いる明と朝鮮の連合軍5万数千が小西行長軍5000程が守備する平壌を包囲しました。
小西行長が率いていた1番隊は朝鮮上陸時には18700程いたはずですが、度々の戦闘で消耗していたのと各地の占領・駐屯・病気などでこの様な小勢となっていました。
数日間の戦闘の末、李如松は小西行長に平壌からの退去を勧告し、小西行長軍は命からがら敗走する事になりました。

そして1月末、勢いに乗り漢城へと向け南下した李如松が率いる明・朝鮮の連合軍の40000と小早川隆景らの日本軍40000が漢城郊外で激突したのが
「碧蹄館の戦い」でした。

この戦いは、両軍の全軍が一斉に激突した訳では無く、移動中の両軍が順次参戦していった形でした。
日本軍は、ほぼ2分されて先鋒隊は小早川隆景を総大将として20000、
そして宇喜多秀家を総大将とする本隊20000が続きました。

戦いは、明・朝鮮の連合軍の先鋒隊と日本軍の立花宗茂隊の交戦で始まり、立花軍2000の奮闘で連合軍の先鋒隊を破り追撃しました。
しかしそこへ連合軍の7000が到着して立花軍は苦戦。

しかしそこへ小早川隆景の本隊20000が到着して参戦しこの連合軍を撃退。
そこで立花軍は一旦後方に下がりました。
そして追撃に移った小早川隆景らの前に明軍の先鋒軍20000が進撃して来ました。
しかし小早川軍の奮戦でこの先鋒軍を切り崩すと、中央の小早川軍の左右から小早川秀包、毛利元康、そして立花宗茂らが連合軍に攻撃を開始。
連合軍は3方から攻撃を受ける形となりました。

そして資料により位置が違うのですが、この時に追いついた宇喜多秀家軍も小早川隆景軍の左右どちらかから攻撃に参戦したようです。
家臣の戸川達安や花房職之らの活躍が伝えられています。
そして日本軍は連合軍先鋒隊を撃破し、小早川隆景軍はついに李如松の本陣にまで切り込み、李如松は命からがら味方に救出される有様でした。

ここで連合軍には更に後続の援軍が現れましたが、連合軍は足場の悪い狭隘地で日本軍に三方から包囲される形となっており、午後1時頃には連合軍全軍が壊走しました。
そして日本軍はこれを追撃して戦いは日本軍の大勝となりました。
この中で、特に立花宗茂と宇喜多秀家の軍は更に北方まで連合軍を追撃したと言われています。

この「碧蹄館の戦い」の戦場において、石田三成が活躍したという資料はまず無いと思われますよ。

また
「 碧蹄館の戦い」と同時期その連合軍の攻勢に合わせて、漢城の西方わずか14kmの幸州山城に朝鮮正規軍の権慄₍クォン・ユル)という老名将が
2300人ほどで立て籠もり始めました。
そして彼は小西行長、 石田三成、大谷吉継、増田長盛、加藤光泰、前野長康、黒田長政 、宇喜多秀家 らの25000~30000程の蒼々たる日本軍の猛攻撃に耐えきって見せました。
この戦いは激戦で、石田三成や前野長康や宇喜多秀家までもが負傷したとも言われています。
攻撃は事実上失敗で日本軍は撤退しました。

石田三成ファンの方々は、この時の負傷時の事から三成も勇敢に最前線で戦闘していたとのイメージを膨らませているのだと思います。

結局、権慄は限界と判断して幸州山城を破却して撤退しましたが、日本の大軍に一歩も引かなかった戦いぶりは、オンボロな朝鮮正規軍において異彩を放っていますね。

ちなみに、朝鮮軍は都巡辺使の柳成龍が付近の朝鮮正規軍に幸州山城への救援を命じましたが誰も救援に向かわなかったそうです。
朝鮮正規軍の士気の低さはある意味圧巻ですよね。



明側にとっては「碧蹄館の戦い」の敗戦はショックした。
日本側にとっても「幸州山城の戦い」の攻略失敗は厭戦気分を増大させました。

そして講和交渉が現実味を帯びてきました。
しかし両陣営はその交渉を有利にすべく駆け引きを行う事になります。

3月
漢城に立て籠もる日本軍に一大事が起こりました。
漢城郊外の龍山にあった兵糧貯蔵庫が朝鮮軍に焼き払われました。
この兵糧庫には、漢城駐留軍約5万人の二か月分の兵糧の14000石が貯蔵されていた為、漢城駐留の日本軍は明軍との講和交渉の主導権を握られてしまいました。

4月18日、
日本軍は講和交渉開始の条件として同意した漢城より撤退を行い、釜山方面へと全軍撤退しました。

そして講和交渉は動き出しました。
小西行長、石田三成らと明側の使節やり取りが始まったのです。


しかしこの時点で、秀吉の意向で日本軍は朝鮮南部の確保を目指して防御態勢に入りました。
慶尚道(釜山がある地域です)には、この時点で沿岸部に十八城が築かれていてまだ日本軍7万8千人余りが駐屯していました。

5月20日
秀吉は新たに日本軍12万4千人を増援として朝鮮に派兵。
秀吉の狙いは講和交渉を有利に進める為の攻勢でした。

6月
日本軍は釜山の西方にある晋州城を攻撃しました。

晋州城は釜山~漢城への補給ルートから外れていて、堅城という評判もあり、当初は日本軍も手が回らずに放置されていたのですが、朝鮮侵攻が順調に進行した事により余裕ができた為に前年の10月に細川忠興ら20000が攻撃しましたが、朝鮮軍の権慄軍3800の防戦により攻略に失敗していました。(第一次晋州城攻防戦)

その為に今回の第二次晋州城攻防戦は失敗は許されませんでした。
晋州城には、最終的に金千鎰らの朝鮮軍約7000と避難民が立て籠もりました。
日本軍は4万以上(9万なんて数字も)の大軍であり、名将権慄も籠城を断念して入城しませんでした。
明軍も日本軍と講和交渉の締結優先の意向もあり朝鮮側の援軍要請を拒否しました。

日本軍は
加藤清正、黒田長政、鍋島直茂、島津義弘、小西行長、細川忠興、
浅野長政、 伊達政宗、黒田如水、宇喜多秀家、石田三成、大谷吉継、
毛利秀元、 小早川隆景、 立花宗茂ら

とういうオールスターで攻撃。

そして、6月29日
黒田隊の後藤又兵衛の1番乗りにより晋州城はついに落城。
晋州城軍側は市民も含め全滅。


そしてこの戦いの後、講和交渉を有利に進めるという目的を達成した日本軍は再び朝鮮南部の慶尚道の沿岸部へと撤退。
そして次第に兵数を削減し帰国させながら講和交渉を見守る事となります。


だが
石田三成と小西行長らは明使節団と共にイカサマ外交交渉を行います。
要は日本側と明側の使節同士が共謀して、それそれの自国に相手国が降伏を願い出ているとして講和交渉を進めていたのです。

これは石田三成らによる明らかな越権行為+国家反逆罪だとは思いますが…。
しかし無謀な計画を何とかして止め、秀吉政権の安泰を図りたいというその気持ちは本物だったと思いたいものですね。



しかし約3年の交渉期間を経て講和交渉は決裂。

そして 慶長2年(1597年)1月~12月

「慶長の役」となるのです。

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ベストアンサー以外の回答

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ryu********さん

2019/3/1600:40:02

「碧蹄館の戦いでは冷静な戦略指導をして戦いを勝利に導き、また幸州山城の戦いでは自らも負傷しました。」石田三成の会より

戦術面で真逆のことを述べ、よその戦でケガをしたことが「冷静な戦略指導をして戦いを勝利に導いた」証としています。頭の回路がおかしいですね。

loo********さん

2019/3/1301:06:28

Q「お世辞にも「アドバイスし勝利に貢献!」や「共に戦って!」などといった風には見えないのですが、、、これどう言うことなんでしょうか???」

「碧蹄館の戦い」では「石田三成」は戦術面で「小早川隆景、立花宗茂」などと意見も分かれ戦闘にも参加していません。

またリンク先にある通り一か所に集めた「龍山の兵糧倉」を敵に焼き払われ日本軍は窮地となりました。

そしてここから石田三成や小西行長たちは敵も味方も騙す欺瞞外交を行うようになり遮二無二、和平を目指します。兵糧庫が焼かれたことで当たり前ですが焦りが見えます。

この石田三成たちの痛恨のミスとその後の欺瞞外交について数年前に石田三成を擁護する歴史学者(この1冊しか書籍を出しておらず学者と言えるレベルではないのですが・・・)が「数倍の敵が攻めてきたのだから石田三成の籠城案もセオリー通りと言えやもえない」といった苦肉の擁護論を出しました。

それが数年たつと石田三成を讃える書籍「学研歴史群像・石田三成伝」にて「小早川隆景に意見した。アドバイスした。」に変わり、、、更に数年経つとファンたちが「石田三成の活躍で日本軍が救われた!」と歴史改変を行いだしたという流れがあります。

他の回答者さんのリンクにある「石田三成を顕彰するサイト」に知恵袋などの一部の石田三成ファンたちにもそういった歴史改変をされてしまう方々が居られます。

石田三成ファンとしては、この石田三成は認めたくない、見たくない事象のため「朝鮮の歴史学者」によくある行為ですが所謂、歴史改変を行うようです。

Q「どう見れば石田三成は「碧蹄館の戦い」で大活躍したとなるのでしょうか???」

徹底的に石田三成を擁護し肯定的な立場に立ち「偏見(確証バイアス)」の目線で見れば否定的な史料は目に入らないどころかリンク先のように酷い曲解までするようになるようです。

pea********さん

2019/3/1210:10:53

以下のサイトをご参照ください。

http://olmitsunari.mitsu-nari.com/kankoku.html

碧蹄館の戦いの記念碑の内容が写真付で紹介されています。

そこには、おおむね「三成」ファンの方の主張通りのことが書かれているそうです。

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hjk********さん

2019/3/1209:08:09

失敗だらけで隠蔽のため秀吉たぶらかして讒言くりかえしただけじゃない。

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qqm********さん

2019/3/1207:40:33

光成の勝手な作文ですよ。
なので、光成は、以後嫌われたのです。
関ケ原で負けたのも、光成が嫌われていたからですよ。

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