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北条氏政の弟の氏規という方だけ、秀吉から許されて、子孫は藩主になって江戸時代...

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ID非公開さん

2019/3/1218:59:58

北条氏政の弟の氏規という方だけ、秀吉から許されて、子孫は藩主になって江戸時代殿様になっているらしいのですが、 (私が間違った事を言ったらご訂正お願いします)なぜこの方だけ優遇されてるのですか?

謙信ファンの歴女です。

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gpx********さん

2019/3/1220:42:11

北条氏規は隠れた名将でした。こんな逸話があります。

氏規が若い頃、小田原に兵法の達人(剣術使いのこと)が来ました。北条氏の家中の者は老いも若きもその弟子になりました。
ところが氏規だけは入門しようとしないので、「みんなが入門して教えを受けています。あなたも習ってはいかがでしょうか」と、ある人が勧めました。
すると氏規は
「兵法などというものは小事であって、下々の者が学べばよい。家臣を持つ者は、そんなものは必要ない。兵法で人を斬るといっても、せいぜい一人か二人斬れればいいほうだろう。自分の兵法は一度に千も二千も、また五千も一万も斬るべく、常に心掛けている」
と答えました。この見識に、みな舌を巻いたということです。

また、北条氏が秀吉から上洛勧告を受けた際、氏規は名代として上洛しました。
当初は「秀吉ごとき、何ほどのもの」と意気込んでいましたが、聚楽第に伺候して驚きます。大広間には皇族や公家を始め、大大名が綺羅星の如く居流れていました。すっかりその威勢に圧倒され、「我等は何と田舎者だったものよ。秀吉公がこれほどになっているのも知らず上洛し、全く面目ない。井の中の蛙とはこのことだ」と嘆いたということです。
そして、秀吉はわざわざ氏規の宿所を訪ね、天下の形勢を諄々と説き、氏政を上洛させるように説得しました。
氏規も承知しましたが、「しかしながら」と釘を刺しました。
「万一、氏政が上洛を承知せず、小田原に追討軍が押し寄せる事態になったとしても、私が内通するだろうなどという期待は、夢にもお持ち遊ばすな。必ずや私が先鋒となって、秀吉公に一矢奉りましょう」
と言ったそうです。

さて、氏規は開戦には反対でしたが、決まったからには覚悟をきめて韮山城で防備を固めました。山中城は半日で陥落してしまいましたが、氏規の守る韮山城は頑強に抵抗し、四万の豊臣軍は、わずか五百の兵の韮山城を攻めあぐね、徳川家康に勧告させてようやく開城させました。

本城の小田原城は開城に追い込まれ、五代当主氏直は家康の娘婿なので助命され、氏政・氏照兄弟は切腹になりました。
この時、氏政の介錯をした氏規は、「自分だけおめおめと生き永らえようか」と追い腹を切ろうとしましたが、家臣たちが背後から抱き付いて思い留まらせました。

戦後、氏直と共に高野山に流された氏規は、その人となりを惜しんだ秀吉に召し出され、子孫は狭山藩主として北条氏の名跡を伝えています。

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han********さん

2019/3/1315:02:05

家康と親しかったために許されています

ban********さん

2019/3/1219:21:17

秀吉は、北条氏を皆殺しにしたわけではありません。
実質上の主である北条氏政は切腹させましたが、当主である氏直は殺さず、高野山に追放し、のちに一万石程で復活させています。大名家を一軒、完全に滅亡させてしまったら、恨みも買いますし不平分子が世に満ちますから、大幅減でも家名は残してやるのが、利口なやり方です。
しかし、氏直はすぐに残念ながら病死してしまいました、嫡男もいません。北条氏の家督は誰かに継いでもらわないといけないので、氏政の弟が抜擢されたのでしょう。
日本史ではよく「滅亡」なんて言葉を使いますが、一族が全滅して子孫が誰もいない、というような形で滅んだ家って、あんまりないんです。平家にだって頼朝の家来になって鎌倉御家人になった清盛の弟・頼盛がいますし、武田信玄の次男(盲目なので家督を継げなかった)の子孫は江戸幕府で高家になっています。大坂落城で豊臣家は滅亡したといわれていて、実際に秀吉の子孫はいませんが、北政所(寧々)の実家の木下家が「豊臣姓」を許され、豊臣の家督を継いで幕末まで続いています。石田三成の子孫だって、真田幸村の子孫だって、ちゃんと(隠れてではなく、おおっぴらに)続いています。
そういうもんです。日本では、一族を皆殺しにすると怨霊が発生して面倒なことになるので、必ず誰か生き残りに「位牌を守らせる」のです。

usai21さん

2019/3/1219:15:31

もともと北条氏規は豊臣秀吉の小田原征伐前から交渉役を担当しており、秀吉と接点があったので北条家の一門の中でも秀吉寄りの立場でした。

また、小田原征伐の際にも韮山城を固く守って善戦し、武将としても評価されていました。

このため、秀吉から評価を受けて寛恕されたのです。

また、北条氏直は一度は高野山に蟄居となりますが、徳川家康の娘を娶った女婿であることから、家康への配慮からこちらも許されて一万石の大名に復帰します。

しかし、復帰の直後に急死してしまいます。
そこで、氏規の子である北条氏盛が北条宗家の跡目を継ぐ形で氏規、氏直の遺領を相続し、大名として存続しました。

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