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戦国時代の武将で実績の割にマイナーだったり、面白いエピソードがあるマイナーな...

mar********さん

2019/3/1515:35:24

戦国時代の武将で実績の割にマイナーだったり、面白いエピソードがあるマイナーな武将を教えてください

マイナーの基準は人それぞれとは思いますが池田勝正、内ヶ島氏理ぐらいでお願いします

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hir********さん

2019/3/1621:57:21

●延沢満延

最上義光の家臣。
延沢満延は元々は出羽地方の国人連合である「最上八楯」の1人で武勇に優れ、天童氏らと共に最上義光と長きに渡り争い、しばしば義光を破った人物でした。

最上義光は、満延の息子・又五郎に義光の娘の松尾姫を娶わせる事で満延を最上側に引き抜く事に成功。
しかし引き抜き条件には、将来における盟主の天童頼澄の助命も含まれていました。
そして延沢満延を失った「最上八楯」はやがて崩壊し、天童頼澄は伊達家へと逃亡しましたが、この時、先の約束通り最上義光は追撃しませんでした。

また延沢満延は、最上義光がその剛力を試そうとして、家臣たちに待ち伏せさせて飛びかからせたところ、その7.8人の力自慢の男どもを即座に振り払ってしまいました。
これに義光が驚いて逃げましたが満延が追いかけてくるので義光は近くの大きな桜の木にしがみつきました。満延がそれを引きはがそうとしましたが、義光も怪力の持ち主として知られるほどなので桜の木を放しません。

そしてその結果、大きな桜の木は根から引き抜かれて満延と義光ごと倒れてしまったというエピソードがあります。

また満延が16か17歳頃、数々の力自慢の者たちでも持ち上げられない山形両所宮にある大鐘を持ち上げられるかと友人達から煽られました。
それならばと満延はそこへ行き、その大鐘を軽々と持ち上げただけでなく、ついでに10里離れた地元の寺まで持ち帰ると言って持ち帰ったと言われます。


●鮭延秀綱

最上義光の家臣。
鮭延秀綱は秋田横手城主の小野寺氏の家臣で出羽山形の真室城主でした。
やがて最上義光の侵攻を受け降伏。しかし本領を安堵

そして関ヶ原の戦いの時に、最上義光は直江兼続らの率いる総兵力2万5000人の上杉軍の侵攻を受けました。
上杉軍は義光の本拠地の山形城からは南西約8kmという目と鼻の先にある長谷堂城を包囲します。『長谷堂城の戦い』

直江兼続率いる上杉軍1万8000に対し、長谷堂城は最上家重臣・志村光安以下1000名。絶体絶命です。
しかし志村光安は、夜襲で逆襲し上杉軍を大混乱させて直江兼続のいる本陣近くまで攻め寄せるなど大奮戦。
またこの時、援軍として長谷堂城にいた鮭延秀綱の戦いぶりは、敵の直江兼続から「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と称賛されました。

しかしやがて最上家は江戸幕府時代に「最上騒動(お家騒動)にて改易され、鮭延秀綱も徳川家臣の土井利勝の預かりの身となりましたが、やがて許されて土井家家臣となります。
ところがこの時に与えられた5千石の地行を山形以来の自分の家臣たちに全て与えてしまい、秀綱自身はその家臣たちの家に転々と居候して回るという生活ぶりだったそうです。

海音寺潮五郎さんの短編小説 「乞食大名」主人公だそうです。


●松田 康郷

別称は康江、孫太郎、六郎左衛門。松田憲秀とは従兄弟の関係。
智勇に優れ、主家の北条家の勢力拡大に大きく貢献。

永禄9年(1566年)の下総国の「臼井城の戦い」でも大活躍。

上杉謙信軍15000の侵攻を受けた臼井城の守備兵は2000ほどで、たちまち落城の危機となりました。
北条氏配下の松田康郷は包囲前に150騎程の援軍を率いて臼井城に入城していました。
臼井城の城主の原胤貞は、たまたま滞在していた白井入道浄三に指揮権を委譲。
そして白井浄三の指揮で臼井城軍は意表をついて上杉謙信軍に向けて突撃。
第1、2陣が開いた血路に第3陣の松田康郷らが突撃して上杉謙信の本陣の直前まで切り込み、上杉謙信軍をその日は撤退させました。

この戦の際に朱色の甲冑、具足という赤備えの装備で現れた康郷の働きを見て、
上杉謙信が、

「岩舟山に赤鬼の住むと沙汰しけるは、一定彼がことなるべし。」

と感嘆し、「鬼孫太郎」、「松田の赤鬼」などの異名が知れ渡りました。
(岩舟山は栃木県栃木市にある日本三大霊山の1つで赤鬼が住むと伝承がありました。)

漆黒の巨馬にまたがり先頭を走り、向かい来る敵兵を長刀で斬り殺し、刀が役に立たなくなると樫(かし)の棒で馬上の敵を打ち倒し、素手で首をねじ切りという大活躍だったそうです。

結局、翌日も白井浄三の策略にはまり上杉謙信軍は大敗して臼井城攻略をあきらめて撤退させられました。
北条方の記録では上杉の死傷者は5千人以上と語られ、
あまりの惨敗の為か『謙信公御年譜』(謙信の伝記)には記録が見当たりません。

上杉謙信の生涯最大の敗戦といわれます。

その後も各地で活躍しますが、北条家の滅亡後は結城秀康に仕え70歳で死去しました。

※白井胤治(入道浄三)は実在が疑われている人物でもあります。
彼の活躍は戦記物のみとなります。
最近のは研究では、北条氏と千葉氏の援軍が来着した為に上杉軍が敗北したとの説も唱えられているそうです。


●吉岡定勝

因幡山名氏の家臣で因幡国の防己尾城(つづらおじょう)城主。

天正9年(1581)6月

羽柴秀吉の2万の大軍が因幡国へ侵攻し鳥取城を包囲。
ここに「鳥取城の飢え殺し」が開始。

防己尾城は鳥取城の西方にありました。
そして吉岡定勝勢は、鳥取城の包囲軍に対しても幾たびも襲撃し羽柴秀吉軍を攪乱していました。

秀吉は厄介な吉岡定勝を叩き潰そうと考え、地元の因幡国の地理に明るい「亀井茲矩」を防己尾城の攻略の先鋒に秀吉も黄母衣衆を中心とした3000を率いて防己尾城へと進軍。

防己尾城は、鳥取県鳥取市の北部にある湖山池の西岸に半島状に突き出た岬にある防己尾山を要塞化しており、3方を湖水に囲まれ、湖上交通や湖山池の南側の街道に睨みを利かせられる要所にありました。

秀吉は意表をついて親衛隊である黄母衣衆に湖山池から城を攻撃させました。
ところがこれは吉岡定勝に読まれていました。
裏をかいたつもりが裏をかかれた黄母衣衆には、吉岡勢からの鉄砲と弓矢が嵐のように、そして城内にいた領民からも投げ落とされた大木や石らが黄母衣衆勢に降り注ぎ阿鼻叫喚状態となりました。

そして今度はそこへ吉岡勢が逆落としに襲い掛かり、岸の水際へと追い落とされた黄母衣衆勢は壊滅しました。
そして乱戦の中で吉岡定勝の弟の「吉岡右近」により秀吉が黄母衣衆に与えていた『千成瓢箪』の馬印の旗が奪われてしまいました。

吉岡右近は
「天下無双の秀吉を討ち取ったり!証拠の馬印はここにあり!」

と気勢を上げ、それを受けて吉岡勢は大いに意気盛んとなったのでした。

秀吉本人は湖水の対岸の水際でそれを見ながらもどうする事もできず、ただ右往左往していたと伝わっています。

そしてその後、意地になった秀吉は防己尾城を更に攻めようとしましたが、軍師である黒田官兵衛に諫められて、城への包囲・兵糧攻めを指示して鳥取城包囲戦へと帰還。
(黒田官兵衛は防己尾城攻略を必要無しと提言しており、心配して同行していました。戦略的には鳥取城を落とせば防己尾城攻略は必要無いからでした。)

防己尾城は、結局その後、半月ほどで落城。

しかしその時には防己尾城はすでにもぬけの殻となっていました
吉岡定勝らはすでに城を脱出した後だったのです。

吉岡定勝はその後は毛利氏の元へ逃れ、やがて吉岡の地へ戻り、農民として農耕の日々を送ったと伝わっています。

三木城包囲戦、鳥取城包囲戦、高松城水攻め、中国大返し、と秀吉の軍歴の中でも輝かしい時期に因幡の小豪族でありながらも秀吉に大金星を挙げたのが、

「吉岡定勝」という人物なのです。


●天野隆重

安芸の国人衆で金明山城主。
初めは大内氏に従属していましたが、大内義隆が陶隆房(陶晴賢)の謀反によって殺害されると毛利元就に従属。
隆重の妻は福原貞俊の妹で、その関係もあり元就に信頼されていました。
毛利家の数多くの戦いに参加。

隆重は尼子氏が滅亡すると尼子氏の本拠地であった月山富田城の城代を任されていました。
本当は元就に城主になるように言われたのですが辞退。
「元就の一族を城主とするなら補佐する」として城代に。

尼子氏滅亡から3年ほど。
山中幸盛(鹿之助)ら尼子再興軍は旧領の出雲で蜂起し6000ほどの勢力となり出雲を席捲。
そして尼子軍の秋上宗信(久家)2000が月山富田城へ攻め寄せました。
対する月山富田城には城主の毛利元秋(元就の5男)と城代の天野隆重のわずか300でした。
当然実際の指揮は実戦経験豊富な天野隆重が任されました。

この時期、毛利元就は九州の大友宗麟と戦っていました。

○「多々良浜の戦い」(5月~ 11月)
筑前国の立花城の帰属を巡る戦い。

更に

○「大内輝弘の乱」(10月10日~25日)
周防・長門国で大内輝弘と大内家旧臣らが蜂起。

これらは、大友宗麟の軍師と言われる吉岡長増の献策によるものと言われていて、尼子再興軍の出雲での蜂起も大友氏の扇動によるものと言われています。
これらの対処の為に毛利軍主力の早期来援は絶望的でした。


まず天野隆重は毛利元秋の許可を取り尼子軍に降伏。
兵力差を考えれば当然でしょう。
尼子軍も意気揚々と月山富田城内へと入城して来ました。

ところが天野隆重ら300の毛利軍は油断していた尼子軍を突如攻撃。
尼子軍は大混乱となり大損害を受けて城外へと追い払われてしまいました。
完全なる騙し討ちでした。

この後、敗報を受けた山中幸盛ら2000が再び月山富田城へと進撃しますが、天野隆重らは山中幸盛の伏兵などの数々策略らを尽く見抜いて打ち破り、尼子軍は士気喪失して城攻めは膠着状態に陥りました。


やがて翌年の1570年2月
ついに、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らの毛利主力軍13000が救援に動いた為に、山中幸盛らの尼子再興軍は城の攻略をあきらめて包囲を解除。
尼子再興軍は石見国の「布部山の戦い」にて援軍の毛利主力軍を迎撃するも撃破されて尼子再興軍は四散しました。

その翌日、毛利輝元らは月山富田城に入城し、天野隆重を大いに褒め称えました。

質問した人からのコメント

2019/3/20 21:04:28

皆さん回答ありがとうございますm(_ _)m

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sus********さん

2019/3/1615:20:40

戦国時代の武将は人気ありますよね。
マイナーかどうかは分かりませんが、戦国時代のことを、戦国武将のことが、載っているサイトを見つけましたので紹介しておきますね。

http://nakayaku.ciao.jp/book/

sks********さん

2019/3/1600:35:55

一栗放牛 葛西大崎一揆に92歳という高齢で参戦し奮戦するも討ち死にした。
片倉重長 戦国時代よりも江戸時代が主体ですが。片倉小十郎の子で伊達家臣。美形で知られ小早川秀秋が惚れ追い回したという。
本多政重 本多正信の子でありながら上杉、宇喜多、福島、前田に仕えた。関ヶ原の際には明石全登と共に先鋒を務めた。最終的には前田家に仕え父正信、兄正純と交渉し幕府の前田家に対する不信感を晴らすために働いた。
土井利勝 家康から家光まで仕えた。若年の頃から家康に可愛がられ家康の御落胤ではと噂された。
松倉重信 筒井家臣で島左近と合わせて右近左近と称された人物。
熊谷信直 毛利家臣。元は毛利と敵対していたが後に家臣となる。自分の娘が不細工で悩んでいたが吉川元春がそれを承知で娶りそれに感動し心服した。
甲斐宗運 阿蘇家臣。弱体した主家を守るため奮闘し島津軍の侵攻を防いだ名将。
赤池長任 相良家臣。島津義弘と戦いあと一歩で討ち取れる所まで追い詰めた猛将。
以上です。だらだらと名前を上げてすいません。

sto********さん

2019/3/1522:04:22

木俣守勝
徳川家、明智家、井伊家の家臣。三河譜代でありながら徳川家では新参者扱いの井伊直政を補佐し続け、自身で突撃しがちな井伊直政に代わって井伊隊の指揮を執った。初めは与力であったが後に正式に家臣になる。

jaa********さん

2019/3/1517:16:13

赤井直正
松永長頼

der********さん

2019/3/1515:37:37

マイナー過ぎて架空武将かと思いました。

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