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織田信長はわざわざ上洛までして据えた足利義昭の幕府体制をもし義昭が二条での挙...

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ID非公開さん

2019/3/2007:45:45

織田信長はわざわざ上洛までして据えた足利義昭の幕府体制をもし義昭が二条での挙兵という形で破らなかったらどうなっていたでしょうか?

一部の方々の見解だとよく、秀吉の海外進出構想は信長の代からの引き継ぎである。と行った話を伺いますし、日本国内の朝廷権力や幕府権力はどうでもいいや、と考えていた節はありますか?
またその場合、義昭が欲をかかなければ幕府って存続してましたか?

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tun********さん

2019/3/2008:55:18

時系列の理解が必要です。
信長は、義昭を錦の御旗として必要とした段階からスタートしましたが、それを不要とする力を得ていきます。
戦国時代でも、足利幕府はそれなりの役割を果たしていた、とするのが日本史の研究の成果です。だから信長にとって足利幕府は利用価値があり、また邪魔な存在にもなるのです。
もし仮に義昭が信長に完全に屈服したとしても、足利幕府の存続が保証されるわけではありません。征夷大将軍職を取り上げられ、一小大名として細々と生き延びるのがせいぜいでしょう。
それなりに有能であった義昭が、それを無抵抗に受け入れるはずはありませんでした。

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usa********さん

2019/3/2008:50:45

まず、織田信長は独裁的な野心から足利義昭を一方的に追放したわけではありません。

挙兵(ちなみに挙兵したのは二条ではなく、近江堅田や洛中の烏丸中御門第、最後に戦ったのは槇島城です)した際にも、たびたび織田信長側から和議を申し得れて織田信長自身の出家などを条件にしたり、朝廷に和議の仲介を依頼したりしていました。

一方で示威行為として上京を焼いたりしていますので、和戦両輪の構えで、足利義昭の鉾を納めさせようとしていました。

少なくとも、織田信長は足利義昭に勝手をさせるわけでもないけど、大人しく神輿に乗っていてくれるなら担ぎますよという態度ですね。

なので、一方的な追放というよりも、足利義昭にとって乗り心地の悪い神輿から自分で降りて勝手に出ていったというほうが実相に近いかと思います。

なお、足利義昭が出ていった後には人質として息子の義尋が織田信長の元に残されましたが、織田信長はこれを「若公様」と呼んで尊重していました。

というわけで、足利義昭が乗り心地の悪さに我慢しながら、神輿に乗り続ければ今少し幕府は続いたかもしれません。

また、織田信長は朝廷の衰微した儀式や制度を復興することに非常に熱心でした。

有職故実に長けた公家の三条西実枝がかなり織田信長に朝廷とは何ぞやをレクチャしていたこともあり、朝廷に対しては相当熱心に支援をしています。

織田信長は漫画や小説で書かれるほど既存体制の破壊者ではありません。

むしろ、幕府にせよ朝廷にせよその接し方はかなり保守的です。

ただし、織田信長は幕府の役職を受けていませんし、晩年には朝廷の官職もすべて辞していて、どちらにも公的には束縛されない立場だったので、これをどう見るかは様々な見解があると思います。

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nad********さん

2019/3/2007:59:21

存続していたかもしれません。
ただ信忠の代で天皇が義昭から将軍の座を織田に譲るように仕向けたかもしれません。

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