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亡くなった人(祖父)に対して、お墓や仏壇にお参りする以外で「供養」になるよう...

hay********さん

2019/5/107:25:42

亡くなった人(祖父)に対して、お墓や仏壇にお参りする以外で「供養」になるようなことって、具体的にどんなことがあるでしょうか?

宜しくお願いします。

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say********さん

2019/5/107:46:17

供養という行為はじつは非常にシンプルに考えることができるのである。
どのようにシンプルなのかというと、供養とはずばり「功徳を積む行為」を指すと理解すればいい。
この「功徳を積む行為」が何を意味するのかについては、そもそも供養というものが間接的な施しを想定した行為であることを理解しておく必要があるので、そちらの話に移りたい。
直接的な施しと間接的な施し
死者に対しても生者に対しても供養は行われるが、では供養の目的とは何であったか。
供養の目的は、功徳を積むこと。これが理解のベースとなるのだが、ここには供養という独自のものの考え方が潜んでいる。
たとえば仏壇にご飯を供える際、おそらくほとんどの方がそこに故人の面影を思い浮かべるなど、対象(相手)がはっきりしているのではないだろうか。
墓前にお参りをする際などでも、誰にお参りしているかといえば、亡くなった身内、あるいは先祖だろう。
托鉢の僧に供養を施すのも、施す対象は僧侶で間違いない。
ほとんどの場合、供養を施す対象は明確である場合が多いのである。いや、明確な対象に向けて供養を施す、といったほうがより実情に合っているかもしれない。
けれども、供養という考え方にとってそれらは対象の一端に過ぎない。
供養というものは、いうなれば「間接的な施し」をメインに想定した行為であって、「直接的な施し」はむしろ供養の考え方からみればサブ的なものといえるのだ。
直接的な施しとは、故人を相手と考えて故人に直接ご飯を供えるというような、一般的な供養のイメージに合致するもの。つまり、先祖のお参りのために墓前に赴くのも、僧侶に布施をするのも、直接的な施しである。
ほとんどの場合、供養といえば人はこのパターンを想定するものと思われる。
しかしこれらの直接的な施しは、本来的な供養の考え方とは少々異なる。供養のメインはあくまでも間接的な施しにある。
では間接的な施しとは何なのか。間接的な施しとは、たとえば故人の冥福を祈って何かしてあげたいと思ったとき、故人に対して直接何かをするという選択をとらない方法をいう。
つまり、故人とは直接的には関係のないことをするのである。
それでは故人に対する供養にならないのではないか、と思われるかもしれない。
まさに、ここが供養というものの考え方の独自性なのである。
直接故人に何かをするのではなく、故人と直接には関係のない善行を行い、功徳を積み、その功徳を故人に廻らす(送る)のが、供養というものの本来的な考え方なのだ。
これを仏教では「廻向(えこう)」と呼ぶ。
直接的に故人に何かをするのではなく、善行によって生じた功徳を故人のもとに向けて届けるというのが、仏教的な供養の発想なのである。
供養とは功徳を積む行為
仏教は「善行によって生まれた善業は、必ず善い果報をもたらす」という因果の道理を非常に重視している。「善因善果」「悪因悪果」と呼ばれる、あれのことだ。
何らかの行いをすれば必ず何らかの結果が生まれる。
供養の考え方はこうした因果の道理を基本としている。
たとえば、夏のお盆の時期に施食会(せじきえ)という法要が寺院でよく営まれる。
その目的は施主らの先祖の供養であるが、その供養の方法としては、あらゆる精霊に対し供物を捧げて読経をする点が挙げられる。
供物や読経は先祖に対するものではなく(まったくないわけではないが)、「三界の万霊(さんがいのばんれい)」と称される「あらゆる魂」に対して施されるのだ。
そしてその施しによって生まれた功徳を、先祖の霊に廻向するというわけである。
意外と知られてはいないが、ワンクッションあって功徳は先祖のもとへ届けられるという考えに則って、こうした仏事は営まれている。
もし先祖の供養のために先祖に供物を捧げるというのであれば、その供養の構図は施主と先祖の間で完結する。
しかし、直接先祖に供物を捧げるのではなく、ここに第三者を交えるだけで、供養の構図は無限の広がりをみせる。無限の廻り合いをみせる。
そうして供養の輪を広げていくのが仏教的な供養の発想。
「自他ともに」というのが仏教の発想であるから、「自のみ」すなわち自分の先祖のみというのは仏教的な考え方ではないということになるわけだ。
供養とは上記のように、お供えをしたり施しをしたりといった功徳によって、間接的に亡き人に善い果報が訪れることを願って行うものである。
したがって直接亡き人に対して何かをすることだけが供養のすべてではない。むしろ間接的な供養こそが供養の本筋。
つまり供養という言葉の本質は、亡き人に対してどうこう言うものではなくて、あくまでも「功徳を生む行為」そのものを指すということである。
その功徳の力によって、亡き人に善い果報が訪れてほしいと願うことが供養というわけだ。
故人に対して善き行いをするというよりも、故人に関係するしないに関わらず何か善い行いをして、その善い行いによって生まれた功徳を故人に廻らすというのが仏教的な考え方といえため、追善供養は供養の本筋を歩むものであるといえるだろう。
供養には3つの種類がある
このような供養について、仏教では供養というものを3つの種類に大別して考えることがある。
3つの種類というのは「利供養(りくよう)」「敬供養(きょうくよう)」「行供養(ぎょうくよう)」。
これら3つの特徴についてそれぞれみていきたい。
利供養
1つ目の利供養(りくよう)とは、亡き人に対して何かをお供えすることをいう。
生前好んでいた食べ物や飲み物などを仏壇に供えること、あるいは線香を供えたり、蝋燭に火を灯したり、花を飾ったり。
前述した五供に限らず、亡き人に対してお供えされるものはすべてこの利供養と考えられる。
その他にも、たとえば人から何かをいただいたとき、まず仏壇に供えるというようなことも利供養に含まれる。
墓前でも仏壇でもどこであっても、とにかく故人に対して何かを供えるという行為はすべてこの利供養と考えていい。
おそらく一般的なイメージからいえば、供養という言葉を聞いて想起するのはこの利供養ではないか。
それだけに、利供養が供養であることに特別疑問を抱く方はほとんどいないと思われる。
敬供養
2つ目の敬供養(きょうくよう)とは、ブッダの教え、つまりは仏教を敬うことを指す。
具体的には、教えが書かれたお経を読むこと、唱えること、学ぶこと。
毎朝仏壇の前で読経をしたり、身内の方が亡くなって四十九日の間、毎日読経したりするのはこの敬供養をしているといえる。仏教や禅の本を読むことも敬供養に分類されるだろう。
あるいは日常的に読経をしなくても、一周忌や三回忌などの法事の場では必ず僧侶が読経をする。あの読経もまた敬供養の1つ。
法事といえば僧侶の読経、というイメージは強いと思われるが、そのイメージの根底にあるのは敬供養であったというわけだ。
ただまあ、敬供養などという細かな言葉など知らずとも、お経を唱えることが供養であるという認識もまた、利供養と同等に一般的なイメージに沿うものだろう。
だからこれら2つはあまり問題というか疑問視されない。
一般的でないのは、3つ目だ。
行供養
3つ目の行供養(ぎょうくよう)とは、簡単に言ってしまえば仏道修行をすることをいう。
仏道修行などという言葉を使ってしまうと、いかにも特別な行いを連想してしまいそうで適切ではないのかもしれない。ここでいう仏道修行とは、要するに善行のこと。善い行いのこと。
そうした仏道修行に適う生き方をして、自らもまた生きながらに仏となることを目指して生きていく。
それが行供養なのである。
おそらく、供養の3つの種類のなかで、疑問を持つならこの行供養になると思われる。
なぜ仏道修行をすることが故人の供養になるのかと。
ここで、前述した「供養とは功徳を生む行為」であることと、「供養は間接的な施し」であったことを思い出していただきたい。
修行が供養になる、あるいは自分の生き方が供養になるとは、正しい行いによって生まれた善業は善い報いとなってあらわれるという考え方が存在するため。つまり善い報いを亡き人に廻らすという思いがあるからこそ、善行は功徳となるのである。
したがってこの行供養は、ある意味で供養の正統をいくものであり、因果の道理を踏まえた供養の在り方であるといえる。
亡き人の分まで生きる
私は個人的に、行供養という考え方はとても素晴らしいものだと考えている。
たとえば親しい人を亡くした遺族に何が伝えられるのだろうかと考えたとき、頭に浮かぶのはこの行供養だったりする。
べつにあえて何かを伝えなければいけないわけではないのかもしれないが、それでも何か伝えるべきことがあるとしたら、それは残された者の生き方なのではないかと思うのだ。
有り体にいえば「亡き人の分まで生きる」ことが、仏教的な供養なのだと思う。
「亡き人の分まで生きる」
この言葉の根底にあるのは、行供養という考え方そのものだ。
親しい人を失った悲しみから立ち上がり再び前を向いて歩きはじめるのと、故人のために何ができるかとを考えたとき、そこには自ずと行供養の姿があると思えてならない。
大切な人を亡くして悲しみの底にあっても、自分の生き方が亡き人の供養になると考えることができたなら、立ち上がるきっかけになるのではないか。
あの人の分まで生きよう。
それは、その人にしかできない尊い供養の姿ではないだろうか。
供養というものにはいろいろな思いや考え方があっていい。
こうでなければいけないという、形式的なものにおさめる必要はない。

  • 質問者

    hay********さん

    2019/5/108:03:32

    「行供養」心に染み入りました。

    詳細な回答ありがとうございます。

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kaz********さん

2019/5/114:20:15

特定の場所に限らず、心の中で祖父に感謝を伝える事もそれに該当するのではないでしょうか。供養というと少し堅苦しいので言葉を「挨拶」に置き換える発想で良いと思いますよ。

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hoo********さん

2019/5/112:44:06

寺で供養してもらう

本当の意味で供養ってどうなんだろうな

成仏してたら仏壇や墓にお供え物をして線香あげてってのはあり
成仏してなかったら、いくら冥福を祈ったところで成仏できない

自分の身内が成仏してないなんて誰も思わんからな
みんな成仏したと思い込んで供養してる
その場合は本当の意味で供養になるかと聞かれると微妙

私はなくなった人間が霊界に戻ることが大事だと思っている
戻る期間に戻らない場合、何百年たっても自力で成仏することは無理

供養と言うのは生きてる身内が亡くなった人のことを祈る行為であって
それが成仏につながるもんでもない
なくなった人が成仏したかどうかなんてわからんからな

仏壇に好物を供えるのは大事だと思う
成仏したない場合、仏壇に備えられたものしか食べ物がない
たまにいるんだよ
仏壇に供物がなくて食べるものがなくって餓鬼になってる霊
成仏してたら霊界で好きな食べ物を食べることができるが
成仏してない場合、仏壇だけが頼みの綱
拒食症って餓鬼がついておきることが多い
霊界にいても仏壇に好物上がったら食べに来る

寺で供養する、好物を供える
墓掃除してもいい

それくらいしかないと思う
それ以外を質問してるわけだが、そんなものはないと思うよ
祖父に対する供養なら祖父が喜ぶことをすべき

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man********さん

2019/5/109:41:49

供養とは。
人は2度死ぬと言われています。1度目は肉体の死、2度目は人の記憶から消えた時です。故人を忘れない、時に故人を思い出すことこそ最大の供養です。

お墓や仏壇にお参りすることは、そんな機会ですね。お供えを故人は食べませんが、それを準備して供えるという行為は、あなたの事を忘れていないよ、という気持ちに繋がります。そこが大事な点です。

それ以外にも、故人を思い出す機会(供養となる機会)は、いくらでもあります。
・食べ物でも、場所でも、一緒に遊んだことでも良いです。
・自分の人生にすごく役立っている故人の言葉があれば、それを人に語るのも良いです。
・あの製品は・・とか、あの建物は・・・とか、故人ゆかりの事柄を人に語るのも良いですね。

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kod********さん

2019/5/109:18:35

故人を思い出す事です。

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tmm********さん

2019/5/109:08:57

不特定多数の人のためになることを
してください。
公園の掃除とか、人がお参りしなくなった
お地蔵様や不動明王様の掃除とかです。

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