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邪馬台国論争について

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ID非公開さん

2019/5/2215:10:25

邪馬台国論争について

なぜ九州説と近畿説で統一時期に約1世紀のズレが生じるのですか?
またそれぞれ吉野ヶ里遺跡と纏向遺跡にどう関わりがあるのですか?

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2019/5/2818:25:12

邪馬臺(台)国、または邪馬壹(壱)国は北部九州で間違いありません。
それはもちろん壱岐対馬北部九州を領域とした一地方政権だった、と言う事になります。
よく言われる、卑弥呼の都は北部九州にあったが、畿内や東海北陸地方も領域として含んでいた、即ち、北部九州中心だが、全国(西日本が主だけど)統一政権だった!と言う説は以下の倭人伝の記述で否定されます。
倭人伝には、邪馬台国連合の東の海の先千里にも倭種の国がある、と書かれていますので、北部九州から見て瀬戸内地方や四国地方は同じ倭種だけど、邪馬台国連合に属しない諸国、と言う事です。つまり、中国四国以東はこの邪馬台国連合には含まれていない北部九州限定の地方政権と言う事になります。
台与の晋への使節派遣が266年、 倭国が半島に進出して行ったのが360年代以降ですので、その間に北部九州まで含む統一政権が成立したと言う事になります。おそらくは34、50年代です。

逆に畿内説が正しいなら卑弥呼が即位した180年代にはすでに東海北陸地方から北部九州壱岐対馬までが邪馬台国連合の領域だった事になります。
なので、180年ごろ、遅くとも200年代が統一政権の成立年代になります。
その違いは約150年くらいです。


また、邪馬壹(壱)(ヤマイ)国の場合ですが、この場合は卑弥呼の後継者は壱与(イヨ)となります。
では、この場合、邪馬壹国は何処にあったのか?ですが、畿内説のヤマト説(奈良盆地周辺)は完全に除外されます。
ヤマイと言う地名ではありませんから。

北部九州の場合は八女(ヤメ)市が相当します。
この八女(ヤメ)の地名がヤマイから訛った地名と考えれば辻褄が合いますね。
また、邪馬台国(ヤマト)であっても、八女市の南隣は旧山門郡(現みやま市)ですので、北部九州説では何ら問題がありません。
この八女市の北隣が久留米市で卑弥呼の墓とも言われる祇園山古墳があります。
祇園山古墳は高速道で一部が削り取られてその断面を見る事ができます。
グーグルマップの写真で断面を確認できますが、この一部の断面だけでも7、80mはあります。
全体の断面では、100mは超えるでしょう。
古墳そのものは一辺が23mくらいの方墳ですが、
魏使はこの基盤全体を含めて目撃したのです。
倭人伝は数値に誇張が多々見られますので、この直径が100m前後は径百余歩(の150m) と言う記述にピッタリです。
逆に箸墓古墳は一辺280m(2百余歩)以上なので、誇張して3、4百余歩と記述されてもおかしくないでしょう。
また、被葬者は石棺に埋葬され、方墳中央部に直葬されています。
これも有棺無槨(棺有って槨無し)の倭人伝の記述にピッタリです。
(箸墓古墳だと有棺有郭)
さらに、祇園山古墳にはその基盤部に66体もの殉葬と見られる埋葬者があります。
中には差し違い葬と言う明らかに殉葬の埋葬者もいます。
この66体全てが殉葬ではなくても、その内の数十体は殉葬とすれば、この数十体を誇張して奴婢百余人を殉葬した、と倭人伝に記述されたと考えるとピッタリ一致します。
日本全国でこれほど倭人伝の卑弥呼の墓の記述にピッタリ合う古墳はありません。
箸墓古墳などはまったく論外です。

以下ウイキから

古墳は高さの約1/4を地山から方形台状に削り出しており、その基部は楕円形をなしている。
形状は方墳で、石棺は、、内部には朱の痕跡がある。石棺はあるが槨はなく、形状、規模とも吉野ケ里遺跡の楕円状構築物の上に築造された方墳および楽浪漢墓 (阿残墓) 石巌里第9号墳に類似する。

規模・形状

方墳の規模は東西約23.7m、南北約22.9m、高さ約6mで、、葺き石は2段(墳丘裾部と上段の盛土部分)であり、方墳は本来の地形を楕円形に整形した台地の上に存在する。

墳丘外周からは、殉葬された従者66名以上と推定される甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5・不明2を含む)、箱式石棺7基、竪穴式石室13基、不明7基の埋葬施設が確認されている。甕棺は糸島地区甕棺の末期形式のものであることから、被葬者や従者は伊都国との関連が示唆される[3][4]。

墳墓は九州高速道建設のために削開されるところを、、かろうじて墳墓の約80%が遺跡として保存された[5]。

築造時期が墳墓の形状、構築、石室、周囲の甕棺の様式から三世紀中期であること、規模が一辺約23mで斜辺が32mで下部が楕円状であること、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に埴輪はなく66名以上の殉葬があること、そのうちの甕棺K1からは後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1墓からは鉄製の武器や農機具が出土していること、出土品の殆どが時期的に矛盾が無いことなど多くの点で魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記載と矛盾が殆ど無い。さらに、この古墳が邪馬台国が存在した可能性のある筑紫平野を一望できる高台の占地に存在することから、魏志倭人伝の卑弥呼の墓の可能性がある。

以上のように祇園山古墳と箸墓古墳とを比べると、箸墓古墳は卑弥呼の墓としてまるで該当しないのが良く分かります。

結局畿内説で唯一根拠らしきものは歴博の土器付着スス焦げの炭素年代のみです 。
それによれば、箸墓古墳の周濠から出土した布留0、1式土器に付着していたスス焦げの炭素年代が24、60年代を示した、だから箸墓古墳の築造年代は24、60年代となり、卑弥呼の死亡年の247、8年にピッタリ一致する、即ち、箸墓古墳が卑弥呼の墓で間違いない!と言うものです。
しかし、その歴博の土器付着スス焦げの炭素年代は国際標準較正曲線ではなく、光谷拓実氏が開発したと言う日本産樹木の年輪年代法に基づく較正曲線によるものです。
つまり、歴博炭素年代=光谷拓実氏の年輪年代≠国際標準年輪年代です。
所謂土器編年も畿内説ではこの歴博の炭素年代に基づくものなので、結局光谷拓実氏の年輪年代法を当てはめたものに過ぎません。(畿内流土器編年)
結局、畿内説の根拠らしきものはこの光谷拓実氏の年輪年代法(≠国際標準年輪年代)の一本槍でしかない。

しかし、この光谷拓実氏の年輪年代法によれば、604年頃創建、670年頃全焼、その後701〜10年頃再建された法隆寺の五重塔の芯柱の伐採年が594年になってしまう。他にも14事例で記録と伐採年が百年古く食い違ってしまう。
つまり、この年輪年代法自体が百年古く狂っているのです。
したがって、歴博炭素年代も畿内説の土器編年も全て百年古く狂っているのです。
事実、歴博の炭素年代=光谷拓実氏の年輪年代=畿内説の土器編年、(これらは全て同一の根拠=指標=光谷拓実氏の年輪年代法≠国際標準年輪年代,の繰り返し)以外のほぼ全ての指標が箸墓古墳の築造年代を4世紀前半と示しています。

いくつかの根拠=指標を示しましょう。

1、箸墓古墳より少し古いホケノ山古墳から楽浪鏡と言われる銅鏡と同じ様式の銅鏡が出土した。
この楽浪鏡は楽浪最終期土器と共伴して出土する鏡でそれ以前の土器とは共伴しない。
楽浪郡の滅亡は313年なので、楽浪最終期土器は290年代以降くらいの土器である。
即ち、ホケノ山古墳の築造年代はその後、つまり従来説の32、30年代が正しい。
すると箸墓古墳はその後、330〜50年代となり、やはり従来説が正しい。
他にもホケノ山古墳の原型ではないかと思われる徳島の萩原墳丘墓(ホケノ山より古い)からは楽浪郡の墓出土の楽浪鏡と傷の形まで一致する楽浪鏡が
出土する。
この場合、楽浪郡墓の人物は290年代〜313年代に死亡した事は確実だ。
つまり、萩原墳丘墓の人物もその同時代に死亡した、と考えて間違いない。
即ちその後のホケノ山古墳は32、30年代築造となる。
これも動かぬ証拠。

2、箸墓古墳ははじめて出現した巨大古墳であり、従来のホケノ山古墳などの中小古墳群とは全く一線を画する。
これははじめての巨大権力者の出現をあらわしている。
記紀によれば、ハツクニシラススメラミコトたる崇神天皇がそのはじめての巨大権力者に相当し、その活動期は4世紀前半である事は定説である。

3、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の碑文によれば、ヲワケの臣が471年に造らせたとあるが、その7代前がオホヒコとある。
この オホヒコとは崇神の伯父のオホヒコノミコトの事と思われる。
すると、崇神はヲワケの臣の6代前であり、世代にして14〜60年前に相当する。
即ち31〜30年代が崇神の活動期であり、やはり、4世紀前半で一致する。

4、箸墓古墳の周濠の底の落ち葉を含んだ固く締まった土層の中層から木製輪鎧が出土した。
302年銘のある長沙の墓から出土した騎馬俑400余体中、鎧は僅かに3体のみで、しかも片鎧。
これは大将クラスの物で威信材でもあったと思われる。 だから、高価な金属製が多かった為に鎧と言う字は金偏なのである。
しかし後世に、硬製鞍と両鎧がワンセットとして発明された。これにより馬上の安定感がズッと増し、騎馬兵の有用性が大幅に向上して、騎馬戦術の大変革をもたらしたのである。
その為、全騎馬兵に鎧が必需品となり、(400体なら800もの鎧が必要)安価で大量入手しやすい木製輪鎧が普及した。
それは4世紀中頃以降の事で、現に、357年銘のある高句麗の墓の壁絵でも鎧は描かれていない。
また百済墓で鎧が出現するのも4世紀中頃以降である。
従って、箸墓古墳の周濠の底の土層が築造後積もったものだとしても、早くて4世紀後半であって、そうすると築造年代は4世紀前半が合理的。

これらの指標はどれも炭素年代とは無関係な上に、お互いも無関係で互いに完全に独立した指標です。

それらが全て箸墓古墳の築造年代として4世紀前半を示している。

対して、畿内説の根拠は唯一歴博のスス焦げ炭素年代=光谷拓実氏の年輪年代法≠国際標準年輪年代,,一本槍の繰り返しのみ。
( それだと、700年代再建の法隆寺の五重塔の芯柱の伐採年が594年になってしまう。等々)
つまり、畿内説には根拠が存在しないのです。

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ID非公開さん

2019/5/2617:54:58

継体天皇以前の王宮跡がまだ見つかってませんから、それ以前の天皇は全部架空です。

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aki********さん

2019/5/2609:10:36

元々九州説も畿内説も同じ時期の話でしたが、畿内説の根拠になっていた魏からもらった鏡があまりに多く出土し、国内製ではないか?という話になり、また、魏志倭人伝の卑弥呼の都の特徴と全く同じ特徴をもつ吉野ヶ里遺跡が九州から発掘され一時九州説が有力になりました。
出土品の状況をみていると鉄器や絹、銅矛は九州では発掘され畿内ではほとんどないです。また埋葬法や当時の植生を見ても九州説が有力です。
ここからが本題で、1世紀ずれるようになったのは国立歴史民俗博物館が箸墓古墳の年代を調べてみたら定説より100年前にできたという事がわかりました。そうなるとそれまでは日本書紀より纏向遺跡は垂仁天皇の遺跡だと言われていましたが、100年前になったので魏志倭人伝で書かれた遺跡の特徴とは全く違いますが(使者は邪馬台国まで来ていない。だから、違う国の事を邪馬台国だと書いたので魏志倭人伝の記述と違っていても当然で)纏向遺跡は大きな遺跡だから邪馬台国の都だ。となりました。
つまり、畿内説は資料の記述はほぼ完全に無視しているため、時代があっていようと根拠はないのですが、何故か主流になっています。
また、畿内説の根拠の測定方法が間違っているという方もいます。理由は炭素14年代法や年輪年代法が100年くらい誤差が出る測定法です。その測定法で測ると法隆寺は100年前の木材を使って建てられた事になったりするそうです。また、100年前にしたことで馬がいる時代からいない時代になったはずなのに馬具が発掘されました。他にも時代を遡るため矛盾が多々でてきます。なので、測定結果が間違っている可能性が高いです。

まとめると、従来通りの時代設定であれば畿内説は成立しないので、それを成立させるためには間違っている可能性がある測定法を使ってもでも1世紀ずらす必要があります。九州説では従来通りの時代で成立するので、畿内説と1世紀ずれがでます。
吉野ヶ里遺跡は魏志倭人伝に書かれた都の特徴をもった唯一の遺跡。纏向遺跡は(時代を遡れば)卑弥呼の時代にある国内最大規模の遺跡になります。

boo********さん

2019/5/2215:13:58

遺跡のから出土したもののDNA鑑定の結果でしょうな

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