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終戦時に満州鉄道で働いていた人たちはどうやって日本へ帰国したのでしょうか?

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ID非公開さん

2019/6/408:49:55

終戦時に満州鉄道で働いていた人たちはどうやって日本へ帰国したのでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

2019/6/410:13:42

ごく一部は、関東軍の首脳と一緒に山間部へ入り朝鮮鉄道線経由でいち早く本土へ。

多くの人は、現地へ抑留され、鉄道線の運行を中国人がマスターするまで引き止められます。
終戦間際に 急遽、関東軍に徴兵された人は シベリア送りです。

満鉄が中華民国→共産党支配になると 希望者から ロコ島や大連経由で帰国できました。

多くの設備が解体され 機関車までソ連にもっていかれたのでその手伝いもさせられたようです。ゲージを広軌にどうやって合わせたか、わかりませんが?

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sin********さん

2019/6/711:51:47

中国大陸には100万人の軍人と50万人の民間人がいました。

そこで「やばい」と思ったトルーマンはポツダム宣言で、敗戦を
受け入れれば兵士が帰国出来ることを謳いました(民間人の扱いは
規定なし)。
そこで米中(国民政府)は戦後速やかに、軍人から先に引き揚げるよう
図りました。艦船は第七艦隊らです(日本の艦船極少)。

中国北東部(ソ連軍管区)は
旧ソ連領 軍人45万人民間人 2万人
満州 軍4民間 100
北朝鮮 軍3民間30
樺太など 軍3民間50
でしたが、ソ連は引き揚げには関心がありませんでした。
1946年7月、米ソ会談の結果、12月から満州を始めとして
引き揚げが行われました。ここでも第七艦隊らが行いました。

軍人のシベリア抑留を始め、
戦場にもなった満州での開拓団ら民間人、また米国軍管区である
南に逃避した北朝鮮での民間人は、戦後も長期に渡り大変な目に
あったと言えましょう。

よく学び、現代への反省としなければなりません。
(東京を始めとする全国都市部への空爆、沖縄、広島長崎、そして
満州等での多数民間人の戦災は忘れてはならないことです。)

ay8********さん

編集あり2019/6/709:52:47

引揚げ船で。

舞鶴(京都府)や南風崎(=はえのさき。長崎のハウステンボスの南あたり)などが帰還時初めて日本の土を踏んだ上陸地でした。

ail********さん

2019/6/410:31:31

鉄道と船です。
関東軍はトラックも使っています。
船はGHQが手配しました。
港までは自力です。

man********さん

2019/6/410:16:50

何しろ日本人社員だけでも10数万人の国策巨大企業でしたから
家族も含めると膨大な人数になります。
従って 暫くは ソ連・中華民国(のちに中国共産党)管理下に
置かれ 順次 地域や社宅などのグループ分けにより
昭和21年5月から引き揚げて行きました。
但し 鉄路のみならず 鉱山や製鉄所も有する大企業ですから
技術者は 個々に ソ連・中国両陣営から留用された人が多く
昭和28年3月までに殆どの人が引き揚げ、ごく少数の人が
昭和30年2月に完全に引き揚げました。

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