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小田原征伐後 豊臣秀吉が徳川家康を関東に飛ばした理由は何だと思いますか?

織田信長に捨てられた里芋さん

2019/6/918:58:01

小田原征伐後 豊臣秀吉が徳川家康を関東に飛ばした理由は何だと思いますか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

2019/6/1017:27:47

江戸と大坂は、ものすごくよく似ています。
昔は海の底。低湿地。河川の氾濫。でも大規模な改良工事をすれば広大な土地が出来上がる。
内湾の奥にあって、ものすごくいい港ができる。
交通の要衝。いくつもの街道の結節点になりうる。

秀吉は低湿地だった難波の地に壮大な都市をつくり、日本統治の要に育てあげました。しかし日本は広い。日本全体を平和に治めるなら、もうひとつ、東国にも「副首都」と呼べるような大都市を作らなければなりません。駿府でも、小田原でもダメです。大坂と同じように、未開の原野に一から計画都市をつくりあげなければならないのです。
そして、それができるのは徳川家康のほかにはいなかったんです。
秀吉は実は、家康を日本統治のパートナーとして、ものすごく頼りにしていた。「家康殿、日本のために、東にもうひとつ大坂を作ってくりゃー」くらいの意図があったんです。

もちろん、そのためには、関東をバラバラにして何人かに分け与えたのでは。到底無理。江戸の低湿地を沃野に変えるためには、関東全域の河川の大規模な改造が不可欠だからです。なので、関東全域を、一人の実力者にドーンと任せなければならない。これをやれるのは家康しかいない。家康に任せるなら、根こそぎ引っ越して関東に全力を投じて貰わなければならない。
つまり、最初から「江戸建設のための家康関東移封」なんです。

これは従来の「秀吉は、家康を警戒しまくり、なんとか力を殺ごうとばかり考えていた」という「通説」とは、真っ向から対立する考え方でしょう。しかし。私は秀吉という人間を、ライバルを潰すことばかり考えているちっさい人物である、という論には賛成できません。理由は「そんなやつだったら、人の信頼を集められないし、天下なんか取れない」からです。

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bir********さん

2019/6/1012:20:37

遠征を実施したら、その軍勢の先陣を
務めた部将が征服地の領地を与えられる
のは当時の常識であり後北条への征伐も
徳川が先陣きって攻め寄せた手前、関東
に移封は必然であったと思われる。
しかし徳川の家臣団の心情的には未開の
関東へ移住は気が重かったのは家康も
察したようで家康は領地が増えるので
あれば、どんなド田舎に飛ばされようが
蝦夷にトバされたって平気だと言い、
そう言ったとワザと家来どもに知れ渡る
よう謀ると徳川の家来どもは、え~
蝦夷に行くのかとゲンナリしてた
ところに関東へ移封と本決りの報に
蝦夷じゃなくて良かった関東なら未だ
マシだ、と単純な性根の徳川家臣団は
関東移封を拒絶する者は、ほとんど
出なかった、という。
どこの諸大名も移封を家臣団に全員、
納得さすのは難儀だった。

img********さん

2019/6/1011:24:42

前述されているように、家康は元々から関東取次です

小田原征伐後は、奥羽惣無事も託されているのでそのために江戸でなければならなかったのです

旧領が畿内に近かったから取り上げたというのも間違いです

旧領・三河は家康の助力を得ながら、秀次家臣団+与力が統治をしていますから旧領から完全に切り離したわけではありません(影響力は残っている)

その後も、物資輸送などの面で徳川家の負担を減らすために旧領の一部で東海道筋の宿場を家康に再知行しています

この時期に家康を領国経営で疲弊させる事は、秀吉にとっては豊臣政権の屋台骨を揺るがしかねない事態になります

左遷ではないのです

han********さん

2019/6/922:12:11

家康が与えられた役職は関東惣無事であり責任者です

権限と実力を与えなければなりません将来より現状を変えないと意味がありません

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jun********さん

2019/6/920:01:30

関東に移封される際、地元の旧支配層と対立し、
一揆などが起きる事を期待していた、というのはあると思います。

当時は、中世から近世への移行期間であり、
豊臣政権が送り込んだ新領主は、新支配地で数多くのトラブルを、
引き起こしています。
九州では、肥後の佐々氏、豊後の黒田氏、
四国は伊予の戸田氏、阿波の蜂須賀氏、東北でも出羽の木村氏など、
各地で一揆が蜂起し、佐々、戸田、木村の各氏は失政を問われ、
改易処分をされました。

関東は小田原北条氏が、五代百年に渡り、低税率で善政を行い、
各地の旧領主には、鎌倉時代からの由緒ある家が多数あります。
そこへ、よそ者の徳川家が新支配者になれば、
統治に不満を抱く旧勢力の一揆が起きる可能性が、
濃厚だったと考えられます。
秀吉側は、もし一揆が起これば、これを好機として、
徳川家の勢力を大幅に削いでしまおうと、
考えたのではないでしょうか。

2019/6/919:22:39

大幅な勘違いがあります。

徳川家康は豊臣政権の「東国取り次ぎ」の立場にあり、そのための報償としての関東の大領土なのです。徳川家康の領土と武力が小さいと、豊臣政権の鼎の軽重が軽んじられるんです。
左遷でも追放でもありません。
現代の会社に例えれば、大きな仕事を遂行している有能社員に、さらに大きな権限と給料を与えたのですよ。

1590年の段階では、家康がかなり長生きして豊臣家を滅ぼすなど「確率の低い未来」でしかありません。

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