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万葉集について 柿本人麻呂の、131番の歌はいつ詠まれたものなのでしょうか?その...

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ID非公開さん

2019/6/1114:36:24

万葉集について
柿本人麻呂の、131番の歌はいつ詠まれたものなのでしょうか?その時、何故京に行かなければならなかったのか知りたくて…
石見での任期が終わったからですか?
それとも、持統

朝に何かがあったからでしょうか?
また、柿本人麻呂は刑死だとされていますが、近江から離れ、また石見で妻とは別に死を遂げたとされる理由が知りたいです。

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kie********さん

2019/6/1207:41:21

柿本人麻呂が石見にいて、そこでの経験をもとに歌を詠んだのはほぼ確実だが、それ以上のことは一切分からない。
最初の回答は、いつものことながら極めて初歩的な間違いが少なくとも三つ以上はある。絶対に信じてはいけない。

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ベストアンサー以外の回答

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izu********さん

2019/6/1202:34:15

いつやろ?

dok********さん

2019/6/1119:10:26

「柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時謌二首并短謌」について、柿本人麻呂の人物像が定まっていませんから、人物像の推定で複数の案があり、そのまま提案状態での放置プレーとなっています。
1.柿本朝臣猿と同一人物説では、高級地方官として赴任して、任期途中の中上りと任期満了の帰京の2回説。
2.島根県益田市の伝承から、石見国の下級役人として、税や戸籍などの報告で複数回、上京した。
3.近江国の小野氏関係で遊行詩人説では、複数回、九州から山陰方面を旅をした。
4.奈良県天理市付近の柿本一族の出身だが、下級役人程度で、大神氏などの長門国司に赴任に際し、家来として同行した。

一方、柿本人麻呂は和銅年間に60歳ぐらいで死んだのが、ほぼ、多数決での推定となっています。先に戻って、131番の歌が詠われたのは若い時、中年の時、高齢の時との色々な推定があり、若い時ですと天武天皇の時代ですし、中年の時ですと持統天皇から文武天皇の時代、高齢の時ですと文武天皇から元明天皇の時代となります。

梅原氏の水底の歌で、人麻呂刑死説が唱えられたことがありますが、柿本朝臣一族が弱小氏族の中で和銅年間以降に四位や五位の高官を出していますから、まず、刑死説はないでしょう。
一番の可能性で、柿本人麻呂は中央役人が地方行政官として出向き、奈良の都と地方とを往復したと思われます。当時の役人の任期は6年で、赴任地で女性を手当てするのが慣習でした。そのため、児が生まれても不思議ではありません。それで、石見国益田氏は伝承では柿本人麻呂を祖としていますし、その益田市の戸田柿本神社の綾部家は柿本人麻呂以来の家来です。
石見国戸田と長門国油谷の伝承からすると、柿本人麻呂は帰京途中に海難死したと思われますから、同じ水死説ではありますが梅原氏が唱える簀巻きで水中に投げ捨てられたのとは大きく違います。

なお、柿本人麻呂は近江大津宮の荒廃などを詠いますが、そこに住んでいたとの伝承はありません。可能性として遊行詩人説から生まれた猿田彦一族の関係者とし、近江にも猿田彦一族の一部が住んでいたことからの壮大な空想の結果で根拠はありません。

結局、現在のところ、空想を除きますと、柿本人麻呂はよく判らない人となっています。

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