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神仏習合は吉田神道の普及によって 明治維新の神仏分離までには 随分と弱まって...

an_********さん

2019/6/1615:51:49

神仏習合は吉田神道の普及によって
明治維新の神仏分離までには
随分と弱まっていたのでしょうか。

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mth********さん

編集あり2019/6/1620:17:58

誤解されているようですが、吉田神道は、陰陽道の要素の強い神道です。

ご存知のとおり、吉田神道は伯家神道の亜流というか、太鼓持ち的な立ち位置です。

伯家神道が時代を経るごとに、宮中で次第に吉田神道に、その座を奪われることになります。

免状を出したりと、吉田神道はやり方がいろいろ巧妙でした。

ノンビリしていた伯家神道は、そのうち宮中での主従の座を逆転させられることになります。

ところで吉田神道は、仏教とは一線を画しましたが、陰陽道や道教を取り入れました。

よって「邪教淫祠はすべて排する」という明治政府の政策に引っかかることになります。

吉田神道ですら、宮中から追い出される羽目になるのです。当時の宮中神道は、それだけ仏教や陰陽道の入り混じった神道だったのです。

神仏分離の気流はむしろ、江戸時代になってから。

神道から陰陽道も儒教も仏教も排した、国学者たちの提唱する復古神道を、待たなければなりません。

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man********さん

2019/6/1619:24:09

吉田兼好は、吉田神社で何をしていたかと言うと....

大元宮に日本各地の神社の神を召喚してこき使ってたのですね
伊勢神宮の天照大神もしかり
一度に数柱呼び出して、いたそうです

その名残が現存する本殿
4柱の神を祀ってます
実際はよく呼び出して使っていた神だそうですが

纏めて呼び出して命じていたそうです

まるで陰陽道の式神ですね
吉田兼好は、陰陽師的な呪術者だったかも知れません

吉田兼好は最後に龍になったそうです


吉田神道は陰陽道や仏教(その中にバラモン教・密教や道教の要素があった)他中国思想をミックスして、矛盾に詭弁を使う神道でした。
吉田神道は、仏教を「花実」、儒教を「枝葉」、神道を「根」とします

神社神道の世界では、伯家神道が天皇家の神道であり首座にありましたが、吉田兼好が室町幕府に取り入り神職の任免権・階位の発令権を握るようになり、全国の神社は吉田兼好の支配下になってます
以後も吉田家がその地位を世襲しており、支配力を持ってました

しかしながら、神社神道が優勢だったのは平安時代までです
中世以降は仏教・仏寺の方が優勢で、本地垂迹説に基づいて上位とされました
江戸幕府の時代になると檀家制がしかれ、神職と言えども仏寺の檀家となるよう命令されてます

もともと経済力も政治力も弱い神社神道は、基本的に仏寺の下に置かれてました

中世に圧倒的な人気を誇った「こんぴらさん」とは、金比羅権現を祀る真言宗の松尾寺参りのことです

ama********さん

2019/6/1616:54:59

神仏習合が吉田神道の普及で弱体化したとは思えません。

そもそも吉田神道の影響をまったく受けなかった出雲大社ですが、幕末を待たずに、神仏分離を完成させております。

出雲大社は吉田家との関係を強く拒否し、やがて自立し、仏臭排除を完成させましたが、これこそが神仏分離の根源だと考えます。

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