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清少納言 と 紫式部 は 犬猿の仲だったのですか?

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ID非公開さん

2019/6/1717:11:39

清少納言 と 紫式部 は 犬猿の仲だったのですか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

2019/6/1815:11:49

紫式部が清少納言を嫌ったのは、枕草子で夫藤原宣考と従兄弟の藤原信経の悪口を書いたから。

宮中で活躍した時代はずれていても、以前から清少納言はいずれ紫が頭角を現すだろうなという危機感は持っていた。

また、彰子の父道長は定子の父道隆を陥れてのし上がり、強引に彰子を中宮に仕立てた、という経緯もあり、定子派と彰子派は犬猿の間にあった。

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ser********さん

2019/6/1801:47:10

そんなことはありません。
そもそも紫式部と清少納言は、活躍した時期がずれています。

紫式部が道長の娘、彰子のサロンに出仕することになったのは、清少納言の主、定子が亡くなってだいぶ経ってからのこと。
清少納言はまだ生きてはいたでしょうが、現役引退後久しい頃です。

それでも紫式部日記で、あんなに口を極めて清少納言の悪口を言わざるを得なかったというのは、裏返せばその時期でもまだ、内裏の人々の間では、清少納言が中心となっていた定子のサロンの楽しさ、素晴らしさが忘れられていなかったことを暗示しています。

紫式部は返す刀で、その定子サロン無きあとの時期に最も素晴らしいといわれていた大斎院選子のサロンを、「あちらはヒマだから、あんな風に風流だのなんだのって、素敵にしてられるのよ。わたし達のところは今をときめく皇后のお膝元なのですもの、忙しくていちいち風流のなんのとか、やってられないわよ」と切って捨てています。

彰子サロンの評判がイマイチで、よほど悔しかったのでしょうね。
でも、周りを見るとできない奴も確かにいるし、やっぱ、イマイチよねえ、という自覚もあった。

だからこそ、その時はもうすでに落ちぶれていた清少納言を、改めて罵らざるを得なかった、ということでしょう。

清少納言はあの悪口をどう聞いたのでしょうかしら。(いくら日記とはいえ、あの時代は一般公開されることを想定していたはず)

反論もままならぬ身に、悔し涙に暮れたのか、はたまた、ははは、定子さまのサロンに対抗しようなど百年早い、負け犬が遠吠えしてるわ、と余裕こいていたのか。

いずれにせよ、犬猿の仲になるほどの接点はありませんでした。
単に紫式部の一方的な敵意というか、過剰な対抗意識があっただけ。

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boa********さん

2019/6/1722:51:45

清少納言が引退したあとに紫式部が活動開始したため
清少納言に弁明のチャンスは一切なく
紫式部が一方的に「紫式部日記」でこき下ろしています。

日記の内容はけちょんけちょんではありますが
他人に読ませるものではないので、
面と向かって言えないでしょう。

oms********さん

2019/6/1717:56:36

本人達は宮仕えの時期や年齢も違う為にほぼ面識はなかったと思われます。
中が悪かったというより、自分が仕えていた彰子とはライバル関係になる定子に仕えていた清少納言が気に食わず、紫式部が一方的にこき下ろしていた感じですね。

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qqm********さん

2019/6/1717:43:04

本人たちは、嫌っていたわけではないでしょう。
しかし、主人として仕えた人同士がライバル関係にあり、そのあおりで、仲良くできませんでした。
清少納言が仕えたのは、藤原定子で、清少納言が仕えたのは、藤原彰子です。
ともに、相手を追い落として、皇后の座を射止めるために生きた女性です。

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