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※緊急※ 疑似同期によってベンヤミンのアウラ喪失は成り立たないと濱野さんは言っ...

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ID非公開さん

2019/8/323:00:03

※緊急※
疑似同期によってベンヤミンのアウラ喪失は成り立たないと濱野さんは言っていますがどうなんでしょうか?

なるべく詳しく教えていただきたいです。
よろしくお願いします。

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2019/8/414:47:56

「複製技術時代」、いいかえれば「コピー欲望横溢時代」に対するベンヤミンの批判が持っている先見性=有効性と、彼が見落としている問題側面との交差をどう考えるか?
それが問題ではないか?

たとえば、「n次創作」は、要するに「コピー製造」であって芸術的創作行為のオリジナリティーはゼロと考えるか、実はあらゆる芸術的創作行為は昔から「n次創作」(=本歌取り)の側面を持ち、ベンヤミンの「複製技術」批判の論理は単純過ぎて、その面をきちんと押さえてないのではないか?

とりわけ現代のような状況――エーリッヒ・フロムの言い方を借りれば、「市場で煽られる価値に無批判に同調して、その巧みなコピーを造ることで自分の他者に対する競争上の優位を確保しようとする臆病で卑屈な生き方の大流行」ーーのなかでは、そこで展開しているつばぜり合い=綱引きのダイナミズムをもっと強調したほうがよいのではないか、つまり一見ただのコピーのように見えて、そこに或る批判精神に満ちた芸術創作オリジナリティーが忍び込ませてあるという意味では、たしかに「n次創作」的創造性が保持されてもいるという側面、これを前面に押し出す必要がある。この点では、ベンヤミンの論理は単純すぎるのでは。

創作者と作品との「一回」的契りのアウラ性と同時に、鑑賞者と作品との「一回」的出会い=契りのアウラ性も、芸術の放つアウラには欠かせない。一番わかりやすい例は、CDの音とライブの音の違い。ライブ的アウラは、広くいえば「n次創作」的アウラではないか? 何千回と歌われてきた同じ一曲(その意味ではコピー)がそのライブに来た者には(またそのライブに臨む歌手にとっても)同時に一回的であるという意味では、「n次創作」的創造的アウラに満ちている。
これが「複製技術時代」の一番リアルなアウラ論の展開では?

ついでにいえば、日本の芸術は、和歌の伝統ひとつとってみても(本歌どりの遊び精神)、「n次創作」的創造性の価値をきちんと認めた芸術であった。

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ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

rixaさん

2019/8/323:38:52

ベンヤミンは、オリジナル作品にあるアウラ(「一度きりの」「崇高な」)を大量複製技術が奪ってしまうと『複製技術時代の芸術作品』で言っているのですが、ニコ動では大量に再生される動画が異なる時間に異なる場所でアウラを提供しているってことなのかしら。知らんけど。

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