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邪馬台国はどこにあったんですか?

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ID非公開さん

2019/8/1513:30:13

邪馬台国はどこにあったんですか?

本当はどこにありましたか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

2019/8/1712:18:38

本来は邪馬壹国(邪馬壱国 ヤマイコク)です。
魏志倭人伝には邪馬壹国と記述されていたのです。
440年代に成立した後漢書倭国伝には邪馬臺国と出てきますが、倭人伝が成立した280年代よりも15、60年も後の時代でその頃にはヤマト王権が宋に使節を派遣し有名な倭の五王として歴史に記述されています。(宋書など)
したがってこの頃から壹は臺の誤記かもしれない?と言う疑念が出てきたのでしょう。
つまり、古くは倭国の中心国はヤマイ国と伝わっていたものが実は現在使節を送って来ているヤマト国だったのではないか?と言う解釈です。
これは、実際に
後漢書(百衲本)の、「大倭王は邪馬臺国に居す。」という記述に、「今名を案ずるに、邪摩惟音の訛なり。」という唐の李賢注が続くからです。訛は言葉が誤って変化したことを表す文字です。より古い邪摩惟(ヤマユイ)音の伝承があり、それが変化して今名(唐代)のヤマタイ(邪馬臺、邪靡堆)になったのだとされ、そして、後漢書に百数十年先立つ魏志が邪馬壹国と表記している事実があるわけです。
そうすると、ではその邪馬壹国=ヤマイ国とはどこなのか?が邪馬台国論争に深く関わってきます。
九州説では
それは北部九州の八女(ヤメ)地方の事です。ヤメは
ヤマイが訛った地名でしょう。 そしてヤマイとは山井か山居と言うような意味だったのでしょう。
邪馬壹国の場合は畿内説はどうか?
畿内説は最初からあり得ません。
ヤマトはヤマイじゃないですからね。
そうすると、ヤマト王権は邪馬壹国とは別物と言う事になります。

つまり、本来、倭人伝では邪馬壹(ヤマイ)国=倭国の中心だった。
しかし、後に畿内のヤマト王権が東海北陸中部から北部九州壱岐対馬まで統一して中国王朝側によく知られるようになった為、その中心のヤマト地方と倭人伝の邪馬壹(ヤマイ)が混同されるようになった。しかし、音が食い違う。
そのため、(音としては実はトと読むには非常に苦しいが漢字としては)よく似た臺(台)の誤写ではないか?と疑って邪馬臺国(邪馬台国)とした。
これなら本来タイと言う読みなのでトと読むのは少々苦しいが、倭人の発音の聞き取りなのだから、魏使の多少の聞き取りミスがあったのかもしれない? と考えたのでしょう。
しかし、一方で李賢のように古くはヤマユイと言う音だった、と言う伝承もあるが、、と言う事なのです。
現代の中国側の研究では倭人伝では邪馬壹国だった!と言う事で一致しています。
結局邪馬臺(台)国、または邪馬壹(壱)国は北部九州で間違いありません。
そして倭人伝には、邪馬台国連合の東の海の先千里にも倭種の国がある、と書かれていますので、北部九州から見て瀬戸内地方や四国地方は同じ倭種だけど、邪馬台国連合に属しない諸国、つまり、中国四国以東はこの邪馬台国連合には含まれていない北部九州限定の地方政権と言う事になります。
台与の晋への使節派遣が266年、 倭国が半島に進出して行ったのが360年代以降ですので、その間に北部九州まで含む統一政権が成立したと言う事になります。おそらくは34、50年代です。
これが全国的(と言っても関東以北、九州南部は含まない)ヤマト王権の成立時期です。

逆に畿内説が正しいならそれは邪馬臺国でなければならず、そして、卑弥呼が即位した180年代にはすでに東海北陸地方から北部九州壱岐対馬までが邪馬台国連合の領域だった事になります。
なので、180年ごろが全国統一ヤマト王権の成立年代になります。
その違いは約16、70年くらいです。

しかし、仮に邪馬臺国(ヤマト)であっても、八女市の南隣は旧山門郡(現みやま市)ですので、北部九州説では何ら問題がありません。

この八女市の北隣が久留米市で卑弥呼の墓とも言われる祇園山古墳があります。
祇園山古墳は高速道で一部が削り取られてその断面を見る事ができます。
グーグルマップの写真で断面を確認できますが、この一部の断面だけでも7、80mはあります。
全体の断面では、100mは超えるでしょう。
古墳そのものは一辺が23mくらいの方墳ですが、
魏使はこの基盤全体を含めて目撃したのです。
倭人伝は数値に誇張が多々見られますので、この直径が100m前後は径百余歩(の150m) と言う記述にピッタリです。
逆に箸墓古墳は一辺280m(2百余歩)以上なので、誇張して3、4百余歩と記述されてもおかしくないでしょう。
また、被葬者は石棺に埋葬され、方墳中央部に直葬されています。
これも有棺無槨(棺有って槨無し)の倭人伝の記述にピッタリです。
(箸墓古墳だと有棺有郭)
さらに、祇園山古墳にはその基盤部に66体もの殉葬と見られる埋葬者があります。
中には差し違い葬と言う明らかに殉葬の埋葬者もいます。
この66体全てが殉葬ではなくても、その内の数十体は殉葬とすれば、この数十体を誇張して奴婢百余人を殉葬した、と倭人伝に記述されたと考えるとピッタリ一致します。
日本全国でこれほど倭人伝の卑弥呼の墓の記述にピッタリ合う古墳はありません。
箸墓古墳などはまったく論外です。

結局畿内説で唯一根拠らしきものは歴博の土器付着スス焦げの炭素年代のみです 。
それによれば、箸墓古墳の周濠から出土した布留0、1式土器に付着していたスス焦げの炭素年代が24、60年代を示した、だから箸墓古墳の築造年代は24、60年代となり、卑弥呼の死亡年の247、8年にピッタリ一致する、即ち、箸墓古墳が卑弥呼の墓で間違いない!と言うものです。
しかし、その歴博の土器付着スス焦げの炭素年代は国際標準較正曲線ではなく、光谷拓実氏が開発したと言う日本産樹木の年輪年代法に基づく較正曲線によるものです。
つまり、歴博炭素年代=光谷拓実氏の年輪年代≠国際標準年輪年代です。
所謂土器編年も畿内説ではこの歴博の炭素年代に基づくものなので、結局光谷拓実氏の年輪年代法を当てはめたものに過ぎません。(畿内流土器編年)
結局、畿内説の根拠らしきものはこの光谷拓実氏の年輪年代法(≠国際標準年輪年代)の一本槍でしかない。

しかし、この光谷拓実氏の年輪年代法によれば、604年頃創建、670年頃全焼、その後701〜10年頃再建された法隆寺の五重塔の芯柱の伐採年が594年になってしまう。他にも14事例で記録と伐採年が百年古く食い違ってしまう。
つまり、この年輪年代法自体が百年古く狂っているのです。
したがって、歴博炭素年代も畿内説の土器編年も全て百年古く狂っているのです。
事実、歴博の炭素年代=光谷拓実氏の年輪年代=畿内説の土器編年、(これらは全て同一の根拠=指標=光谷拓実氏の年輪年代法の繰り返し)以外のほぼ全ての指標が箸墓古墳の築造年代を4世紀前半と示しています。

いくつかの根拠=指標を示しましょう。

1、箸墓古墳より少し古いホケノ山古墳から楽浪鏡と言われる銅鏡と同じ様式の銅鏡が出土した。
この楽浪鏡は楽浪最終期土器と共伴して出土する鏡でそれ以前の土器とは共伴しない。
楽浪郡の滅亡は313年なので、楽浪最終期土器は290年代以降くらいの土器である。
即ち、ホケノ山古墳の築造年代はその後、つまり従来説の32、30年代が正しい。
すると箸墓古墳はその後、330〜50年代となり、やはり従来説が正しい。
他にもホケノ山古墳の原型ではないかと思われる徳島の萩原墳丘墓(ホケノ山より古い)からは楽浪郡の墓出土の楽浪鏡と傷の形まで一致する楽浪鏡が
出土する。
この場合、楽浪郡墓の人物は290年代〜313年代に死亡した事は確実だ。
つまり、萩原墳丘墓の人物もその同時代に死亡した、と考えて間違いない。
即ちその後のホケノ山古墳は32、30年代築造となる。
これも動かぬ証拠です。

2、箸墓古墳ははじめて出現した巨大古墳であり、従来のホケノ山古墳などの中小古墳群とは全く一線を画する。
これははじめての巨大権力者の出現をあらわしている。
記紀によれば、ハツクニシラススメラミコトたる崇神天皇がそのはじめての巨大権力者に相当し、その活動期は4世紀前半である事は定説である。

3、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の碑文によれば、ヲワケの臣が471年に造らせたとあるが、その7代前がオホヒコとある。
この オホヒコとは崇神の伯父のオホヒコノミコトの事と思われる。
すると、崇神はヲワケの臣の6代前であり、世代にして14〜60年前に相当する。
即ち31〜30年代が崇神の活動期であり、やはり、4世紀前半で一致する。

4、箸墓古墳の周濠の底の落ち葉を含んだ固く締まった土層の中層から木製輪鎧が出土した。
302年銘のある長沙の墓から出土した騎馬俑400余体中、鎧は僅かに3体のみで、しかも片鎧。
これは大将クラスの物で威信材でもあったと思われる。 だから、高価な金属製が多かった為に鎧と言う字は金偏なのである。
しかし後世に、硬製鞍と両鎧がワンセットとして発明された。これにより馬上の安定感がズッと増し、騎馬兵の有用性が大幅に向上して、騎馬戦術の大変革をもたらしたのである。
その為、全騎馬兵に鎧が必需品となり、(400体なら800もの鎧が必要)安価で大量入手しやすい木製輪鎧が普及した。
それは4世紀中頃以降の事で、現に、357年銘のある高句麗の墓の壁絵でも鎧は描かれていない。
また百済墓で鎧が出現するのも4世紀中頃以降である。
従って、箸墓古墳の周濠の底の土層が築造後積もったものだとしても、早くて4世紀後半であって、そうすると築造年代は4世紀前半が合理的。

これらの指標はどれも炭素年代とは無関係な上に、お互いも無関係で互いに完全に独立した指標です。

それらが全て箸墓古墳の築造年代として4世紀前半を示している。

対して、畿内説の根拠は唯一歴博のスス焦げ炭素年代=光谷拓実氏の年輪年代法≠国際標準年輪年代,,一本槍の繰り返しのみ。
( それだと、700年代再建の法隆寺の五重塔の芯柱の伐採年が594年になってしまう。等々)
つまり、畿内説には根拠が存在しないのです。

  • 2019/8/1912:04:39

    卑弥呼当時の筑紫平野の稲作が三日月湖のみの点在した限られた小地域のみのものだった!
    と言うのはただの、そうに違いない!と言う独断ですし、
    福井平野が大きな福井湾から福井湖になり、それが卑弥呼時代にはすでに干上がって日本最大級の稲作平野になっていた!と言うのも、ただの、そうに違いない!と言う独断ですし、そもそも、邪馬台国は日本最大級の稲作農業大国だったハズ!と言うのも独断に過ぎません。

    独断に次ぐ独断で、結局、稲作農業規模比べに強引に持ち込んで、だから、福井平野が邪馬台国の確率は農業規模が大きいんだから出雲と同程度にはある!(以前の投稿)
    と言う訳の分からない主張を(妄想を)展開する人がいますが、まったく無意味な主張(妄想)です。

    石器では大ジャングルだった平野の開拓は出来ない!と言う独断から出発してるんですが、日本最古の稲作遺跡である菜畑遺跡でも鉄器と石器が木材の加工に使われていました。

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質問した人からのコメント

2019/8/21 16:27:14

ありがとうございました。
このきっかけに調べていたら四国(阿波)というのも出てきたので、そちらも興味ありました。

ベストアンサー以外の回答

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ID非公開さん

2019/8/2111:40:07

静岡大学農学部によると、縄文時代の旧式の焼畑農業(陸稲を含む)から水田耕作に完全に取って代わったのはようやく安土桃山時代からという研究結果が発表されてます。それ迄は焼畑と水田の併作状態が長く続いてました。弥生時代に一気に水田地帯が広まったというイメージを抱きがちですが、実際は2000年ぐらいかけて徐々に徐々に水田開発が進められたのです。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=148777
日本で水田稲作がなかなか普及しなかったのは、縄文海進による海岸侵食の影響で平地が少なく、平野部はまだ凸凹だらけで、水田耕作に不向きな黒ボク土壌・ローム層や砂質・沈泥質土壌が多かっただけでなく、森林伐採・治水工事・整地作業・育苗などがかなり面倒だったからだと思われます。それと単位面積当たりの収穫量は江戸時代も弥生時代も、そんなに違いは無かったという実験結果も発表されてます。http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=205322
日本の1人あたりGDPがインドを上回る様になったのは17世紀、中国を上回る様になったのは18世紀からです。その頃の李氏朝鮮は世界最貧国で、雑穀農業主体のまま古代から全く進歩しておらず、朝鮮人の殆どは竪穴式住居に住んでました。戦前の日本が半島を併合して彼らの農業を近代化したおかげで収穫量が増え、腹いっぱい食べれられるようになったから朝鮮人の人口が2倍に膨らんだんですよ。

そういう訳で邪馬台国九州説は無理があります。①福岡平野・筑紫平野は基本的に砂質・沈泥質土壌のため水田耕作に不向き、②当時の福岡平野・筑紫平野の50%はまだ海の中、③甘木・朝倉地区では鉄刃農具が見つかっておらず森林の伐採がなかなか進まなかったはず、④麦・キビ・粟・稗といった輪作による雑穀農業主体だったため、収穫量・カロリー量が共に低かった、⑤九州北部の水稲農耕地は河川下流域の河跡湖が干上がった沖積層に限られ、土砂災害で耕作放棄地になりやすかった、⑥2世紀後半は倭国大乱のため九州北部が荒廃した。⑦弥生時代末期の熊本平野・八代平野・宮崎平野は大部分が海の中。⑧日田盆地や九州南部は基本的にリン酸が不足する黒ボク土壌のため水田耕作には不向き。
畿内説も疑問。①河内湖の水が干上がるのは2世紀頃、奈良湖の水引きは4世紀頃。河内湖の跡地60k㎡だけでは十分な穀倉地帯とは言えない。②奈良盆地北部・京都盆地(巨椋池を除く)は砂質や沈泥質の土壌のため水田耕作には不向き。③大阪湾の海岸線は今よりかなり内陸部に食い込んでいた。④畿内に鉄刃農具が普及するようになったのは5世紀以降で森林伐採がなかなか進まなかったはず。
出雲説もやはり変です。①国引き伝説・ヤマタノオロチ退治・因幡の白兎にあるように、2世紀〜3世紀頃の出雲は高志国(北陸)の支配下にあった、②出雲平野の汽水湖は2世紀に干上がり、鳥取平野・倉吉平野の汽水湖の水引きは4世紀頃。米子平野は砂質土壌のため水田耕作に不向き。③出雲平野の汽水湖跡地50k㎡だけでは十分な穀倉地帯とは言えない。
吉備説・阿波説も可能性低いですね。岡山平野・徳島平野は弥生時代末期には大部分が海の底でした。
濃尾平野や福知山盆地は夏場に河川の氾濫や洪水が多く、農業生産性は不安定になりがち。甲府盆地や山形盆地はリン酸が不足する黒ボク土壌のため水田耕作には不向き。秩父盆地は栄養価の低いローム層のため、水田耕作には不向き。
しかし福井平野・豊岡盆地・横手盆地の淡水湖は西暦1世紀頃に大部分干上がっており、福井平野の淡水湖跡地(140k㎡)だけでも当時の農業技術で数十万人を養えるのに十分な穀倉地帯だったと見られ、高志国は出雲国を支配下に置いて日本海沿岸部の元締め的な存在でした。したがって邪馬台国は福井県、投馬国は但馬、狗奴国とは河内でしょう。5世紀後半に越前の王・継体天皇が20年かけて畿内を征服し、そこに遷都したと考えれば全て辻褄が合います。
https://www.xhimiko.com/
弥生時代後期の人口を、検出された遺跡数と8世紀の人口推定を基礎に割り出すのは問題あり。古い遺跡ほど失われやすく、開発の進んでない田舎ほど遺跡は見つかりにくい傾向にあり、8世紀の人口推定には役所の管轄外や公民以外の人口が含まれてません。

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c6c********さん

2019/8/2100:20:26

広島県三次市です。

三次市甲奴町が邪馬台国と戦った狗奴国です。

大和さん

2019/8/1513:34:28

畿内奈良だよ。

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