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江戸幕末に関してです。

oqk********さん

2019/9/421:17:43

江戸幕末に関してです。

2つ質問があります。

1、攘夷派と公武合体派が争った理由

2、幕府が長州征討を命じた理由

よろしくお願いします

補足2に関して、辞書では禁門の変を理由に長州征討の勅命が出たとありましたが尊王攘夷を掲げてる長州が朝廷から敵視された理由も気になります。

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ojy********さん

2019/9/423:23:39

1 公武合体は開国派だから

2 長州は攘夷派の公家を抱き込んで朝廷を意のままに操ろうとしてた

孝明天皇はそのような長州を死ぬまで蛇蝎のように嫌っていた
だから幕府に長州征伐を命じた

と同時に今までの勅命は余の意志ではないとお触れを出した
これでいかに長州や三条のような過激攘夷派公家が
デタラメをやっていたか分かるでしょ

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zwc********さん

2019/9/822:35:11

1、「攘夷派」「公武合体派」という分類は、最近はしない傾向にありますが、何と言っても攘夷の無謀さと朝廷の壟断に対する危機感、そして天皇本人の意思が確認できたことでしょうね。

特に文久3年5月の攘夷決行以降、各藩は外国船の報復に備えなくてはならず、さらに西国諸藩は朝廷から攘夷督促を受けたため恐慌状態に陥りました。長州藩の攘夷即行に非協力的だった小倉藩の一部が長州諸隊に占領され、朝廷に処罰案が上程されるありさまです。さらに天皇の大和行幸が急浮上し、政治危機になりました。

これに対して天皇は武力による攘夷は望んでいませんから、勅が自分の本意でなく、姦人を排除してほしいとの意向を繰り返し漏らしました。こうして攘夷に批判的でかつ天皇の意思を確認できた薩摩藩や、政局に危機感を持っていた会津藩が、穏健攘夷派諸藩(鳥取・岡山・徳島・米沢)などの妥協案が功を奏しないとみるや、天皇の行幸直前に手を結んでこれを阻止しました。

2、直接的には長州藩が長州処分案の伝達のための呼び出しに応じなかったこと。
根本的な原因は、第一次長州征討が元治内戦の勃発を見過ごす形で解兵され、在京指導部にとって不満足な形で幕引きされたこと。将軍が上洛して勅命を奉じて征長軍を指揮する形で長州藩を服従させるのが最も効果的と考えられ、引くに引けない事態になっていったこと。また、幕府の処分案に対して不信感に凝り固まった長州藩サイドが呼び出しに応じないなど、一橋慶喜以下の面子が保てない事態になったこと。
本当はもっといろいろあるのですが、度忘れしてしまいました…。

kog********さん

2019/9/721:13:34

1、尊皇攘夷派は朝廷・天皇を重んじて外国人を排斥しようと考える一派。
公武合体派は伝統的権威のある朝廷と政権を握る幕府が力を合わせ国難に立ち向かっていくべきという考え方。
尊皇攘夷派からしてみれば、公武合体は朝廷、特に皇室が幕府の都合のいいように利用されていると感じるところがあるのではないかと思います。
攘夷に関して、長州藩は勅使を介して幕府に攘夷を迫っていましたが、公武合体されたら朝廷工作や朝廷の抱き込みが難しくなる可能性もあるような感じがします。
幕府が朝廷と結びつきを強め、公武合体が更に進めば、幕府の権力は復活し幕府の意向が勝ってしまう恐れ(開国路線)も攘夷派は考えていたのではないかと思います。
倒幕というよりは、この頃は同じ攘夷の意向の天皇を担ぎ上げ、朝廷に工作し、幕府に攘夷を実行させることを目的としており、公武合体ではそれが困難になると考えたのではないでしょうか。

2、長州征討の直接の要因は禁門の変で、長州藩が御所に向かい攻撃したことで天皇に弓を引いたことになり朝敵となりました。
幕府の思惑としては、朝廷を介して幕府に何かと要求してくる長州藩が目障りであり、懲らしめたい、力を削ぎたいなどがあったとは思います。
禁門の変は八月十八日の政変が原因で勃発しました。
天皇は攘夷の意向でしたが、過激な尊皇攘夷志士が京都に集まり治安が悪化することで尊皇攘夷派(過激派)を良く思っていなかったということはあります。薩摩国父には京都の過激攘夷派を一掃するよう命じたこともあります。
公家にも過激(急進)攘夷派がおり、長州藩は彼らと接触していました。
公武合体派の薩摩藩としては幕府の改革、朝廷における主導権掌握などの要因から、会津藩と共に八月十八日の政変を決行し、長州藩と急進派公家を京都から追放しました。

pap********さん

2019/9/517:03:18

公武合体派とは、徳川家主導の体制です。攘夷派は、幕末の初期でこそ純粋だったが、長州は反幕の政略として攘夷論をつかいはじめたからです。とくに長州藩は徳川に対して長年の恨みを持ち続け、尊皇討幕に藩論が一つになる素地はあったようです。

わっかさん

2019/9/421:56:42

1)攘夷派である長州が自派に公家を天皇側近の結集し、攘夷決行を幕府に強制しようとし、将軍を京に呼びつけ幕府と将軍の権威を低下させる挙に出た。それに対し、攘夷は非現実的であり、幕府を維持して体制内改革を目指した一橋慶喜や旧一橋派の諸侯は、孝明天皇が倒幕を目指していない事を知り、天皇を中心に公武合体派を結集し、長州の排除を目指した。
2)文久3年8月18日に、公武合体派は、孝明天皇の支持を得てクーデターを敢行し、長州藩と攘夷派の公家を京から追放した。翌年、池田屋事件をきっかけに長州藩は京に出兵し、薩摩や会津など公武合体派の諸藩との戦い(禁門の変)が起こり、長州は敗れた。その後兵乱を起こし、御所に攻め込もうとしたた責任を問い、長州を朝敵として「第一次長州征伐」が起こされた。孝明天皇は外国との国交は、神国を汚すものとして嫌ってはいたものの、強硬な攘夷の決行やそのために幕藩体制を覆す過激な行為を、より強く嫌っていた。つまり本質的に変化を嫌う人であった。長州は天皇が攘夷より秩序や体制の破壊をより嫌っていたという点に気付いていなかった、あるいは無視していた。為に道を誤ることとなったのである。

ail********さん

2019/9/421:56:08

大きく分けて
幕府改革派(公武合体)、守旧派と無血倒幕派(公武合体)、過激討幕派とになります。
幕府含めて全てが尊王攘夷です。
各々が幕府内、藩内で争っています。
長州のみが当時討幕派で京都で戦闘おこし皇居に向かって砲弾撃ち京都の町焼きました。結局朝敵として攻撃されました。
薩土肥も王政復古までは藩としては無血倒幕派です。
一瞬の間に過激派が藩の主導権取り、討幕に転じました。
西郷隆盛が江戸で御用盗して幕府側に薩摩江戸藩邸攻撃させた事と慶喜討伐の偽勅(世に、倒幕の密勅と言います)以外には、どのように数日で藩論を討幕に変えたのか不明です。
多分、都合が悪いので消されたと思います。
有名な亀山社中も誰が作ったか、誰が隊長だったか分かりませんでした。最近の資料で、小松帯刀が作り3両1分の月給が薩摩藩から出されていた事が分かりましたが、それ以外は分かりません。龍馬の小説は創作です。唯一自称隊長と名乗る龍馬が来たと大須藩士の日記に残るだけです。
当時の薩摩藩は滅茶苦茶に謎が多いです。

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