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戦国時代 応仁の乱はどのようにして終結したのでしょうか。

メバルのおばちゃんさん

2019/9/1621:52:51

戦国時代 応仁の乱はどのようにして終結したのでしょうか。

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won********さん

2019/9/1700:35:44

応仁の乱はもともと足利将軍家の後継者争いに大名家の相続争いが加わって起きたもので、当初は下のような対立図でした。

東軍:将軍・足利義政+足利義視(義政の実弟)+後見人・細川勝元
西軍:御台所・日野富子+足利義尚(富子と義政の長男)+後見人・山名宗全

ところがやがて東軍・西軍が「ねじれ」を起こし、敵味方が入り乱れて互いに支援を始めた結果、最終的に

東軍:細川勝元+足利義政+日野富子+足利義尚
西軍:山名宗全+足利義視

という訳の分からない対立構図になりました。これでは何のために戦っているのかさっぱり分かりません。こんな戦がダラダラと続いたものだから当事者たちもだんだん戦に嫌気が差し、文明5年に山名宗全と細川勝元が相次いで死んだことで、ついに東西両軍とも完全にやる気を失くし、文明9年に(それでも終わるまでにさらに4年も掛かった)ようやく終わりました。

質問した人からのコメント

2019/9/21 16:52:25

お返事どうもありがとうございます。

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zun********さん

2019/9/1709:36:15

応仁の乱の総大将である山名と細川は、早い段階で和睦に心が動いています。

が、乱の元凶である「守護大名の家督問題」や利害関係のからむ斯波、畠山、大内、赤松、土岐などの守護大名は、なかなか戦いをやめませんでした。

彼らにすれば一応の目的は明確で、「憎いあいつが東(西)にいるから、自分は西(東)」がひとつの基準です。
将軍家をからめるのは、自分たちの戦いに足利氏の血筋が名分を与えてくれるというだけでもあります。
※富子と義尚が西軍に推されていたというのも旧説に類します

しかし山名と細川の当主が亡くなり、両家はもともと戦う意義が深刻でもないので和睦。

これで細川は合戦の矢面に立たなくなり、細川をたたきたかった大内は戦い続ける意義が薄れます。
西軍の斯波義廉は、配下の朝倉氏が東軍に懐柔されたことで越前を失い、しかたなく尾張に逃れます。

そうして西軍はときがたつと劣勢になりました。
それでもしばらく戦が続いたのは、彼らがこのまま引き下がると賊軍の汚名を着たままになるからという点があり、そこを配慮した和睦交渉が、義政と義視のあいだですすめられます。

といってもこの兄弟は険悪な状態だったため、交渉担当はおたがいの正室が務めました。二人は実の姉妹でもあります。

大内には領国安堵を約束します。大内の大軍が京都を去るとなれば、完全に西軍不利が決まり、畠山義就も一時的に京都周辺から去ります。
こうして西軍の枢軸がいなくなり、残った大名もやむおえず京都を離れたことで乱は終息します。

大和さん

2019/9/1622:34:21

東西の総帥が死去して戦う明文を失って有耶無耶に。

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