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中村元氏の以下の訳について、どう思われますか。 916 師(ブッダ)は答えた、...

kar********さん

2019/11/513:02:37

中村元氏の以下の訳について、どう思われますか。

916 師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。

内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。


中村氏は、その解説で、外国の学者の訳を紹介しています。

それによると、「我は考えて、有る」という部分を、「私は考えるものとして有る」あるいは「私は、考えて(=考えるから)有る」ということのようです。

中村氏は、後者に共感しているようです。

そして、そのどちらであれ、デカルトの「我考う。故に、我有り」に類似の問題意識だとしています。

テーラワーダ のスマナサーラ長老なら、どう訳すでしょう。誰かご存知ないでしょうか。

また、他の訳についても教えてください。

補足経典は、スッタ・二パータです。

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man********さん

2019/11/515:03:38

正田大観訳だと前段でも考えるというニュアンスは含まれていません。
虚構の名称の根本である「存在する」ところの一切を明慧によって破るようにと説かれています。

存在するという常見が内なる妄執に基づく根拠がないものであることを智慧で破ることを指示する教えです。

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質問した人からのコメント

2019/11/12 06:53:42

他の方の回答にも参考になるものがありました。ありがとうございました。

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mos********さん

2019/11/518:38:36

〈我は考えて、有る(在る)〉と日本語訳されるようなパーリ語・原文なのか分かりません。

パーリ原文が読めないです。単語を拾って辞書で意味を掴むくらいのことしかできませんが、同時に複数の英語訳と読み比べてみると、原文では”無我”や”我”について説いているわけではなく、この偈頌が問題にしているのはパパンチャ=漢訳では”戯論”を指す語です。原語・パパンチャはちょっと違うニュアンスがあると思いますけれども。

この916偈頌に続く917以降を読んでも、ここでブッダが説かれているのは、「慢」を中心とした戒めですよね。

この「迅速」(複数の偈頌がある916が含まれるスッタのタイトル)では、「delusion」(妄想)を問題にし、「慢」も妄想ゆえに生じるのであり、その妄想の具体例として最初に916が説かれている構図に見えます。

ですから、複数のタイやミャンマーの僧が英訳しているように、916の英訳は以下のようになるかと思います。

Let him completely cut off the root of what is called papanka (delusion), thinking "I am wisdom;"' — so said Bhagavat, — 'all the desires that arise inwardly, let him learn to subdue them, always being thoughtful.

(※thoughthulは、日本人に分かりやすく言えばマインドフルネスのことを指していると考えられます。”正念”のことです。”知識”等とは関係ありません。「行」のことであり、寝ている時以外は常に働かせておくことです。)

>>I am wisdom
(タイの森林瞑想派の僧だと、I am thinnker と訳している例もあります)

つまり、”私は智者である”とか、”私は思索者である”という”思い”に執着すること(それは”タンハ―=渇愛”です)に、注意を促している偈頌だと理解することが可能です。

しかし、916後半以降の偈頌に対する”日本人訳者”の訳文から感じられるのは、「聖なる道」からは離れてしまった言葉です。

「よく学べ」だとか「”智慧”によって内も外もよく考察することが──」という日本語訳は読者に誤解を与えるでしょう。

英語文献と、パーリ論蔵を基にミャンマーで解説された論文から考察しますと、日本語訳で「学び、智慧、観察」といった語句に表された原語は、すべて「聖なる道」のことです。「聖なる道」のことは論蔵に詳しい解説があります。

「聖なる道」における学びとは、第一に四聖諦であり、八正道であり、サマタであり、ヴィパッサナーのことです。更に言えば、「智慧・知識」とは「苦を滅する道」のことです。そして、「智者」とは「苦を滅する道を歩む人」のことです。

ここでヒンドゥー教アドヴァイタと対比してみます。

アドヴァイタだと、「アートマンを知る」のが智慧であり、それがブラフマン(宇宙の真理)と同じものであると知ることが”悟り”であり、智者とは”真理を知る者”ですが、その”真理”はブッダの教えの説く”真理”と同じではないことが分かります。

ブッダは916偈頌で「智者と自惚れるな、それは妄想だ、慢心だ」と説かれているのです。

論蔵を飛ばし読みして発見が有ったのですが、

dhamma-tanha(心により形成されたことへの渇愛)が、見るものへの渇愛、匂いへの渇愛、音への渇愛などと一緒に、6つの渇愛として挙げられているのを知りました。

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dri********さん

2019/11/514:36:46

あなたはその、「我は考えて、ある」のではない状態というものを知りましたか?

それが結論の状態だという前提があってのこの文章なのではないですか。
もし誰かが「俺はどうせ悟りは開けん。そういう境地は仏陀や構想にしかわからん」と公言しながら、「この文章の意味はなんですか」と聞くのは時間の無駄だと思いますね。

あなたがそれをまずお知りなさい。仮にそれを知ったとしても、なおかつその文章の解釈は難しいかもしれません。
しかし、字義だけ解釈しても仕方がないですよ。
「中村元はこう言っている」
「スマナサーラはこう言っている」
だけど本当は知りようもない、と信じているのなら、そんなものはない方がいいと思います。

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2019/11/514:04:56

オハギIDは、下記以外にも存在し、邪悪なる仏法を流布し中村元計氏保持

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