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三国志の呉は領土、魏と同じくらいにみえますが、魏には勝てないのは人材不足だか...

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ID非公開さん

2020/2/915:54:55

三国志の呉は領土、魏と同じくらいにみえますが、魏には勝てないのは人材不足だからですか?領土も河があり守るにも農作物にも良い領土だと思いますが魏に勝つには支配者の人材不足ですか?

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kou********さん

2020/2/920:26:28

領域面積より人口が問題なのは先のご回答にある通りです。

言ってみれば、東京と北海道が戦争したらどっちが勝つ?みたいな話です。

この時代の南方地域はまだまだ発展途上、というより発展の始まりの時代です。

孫権が呉に政権を樹立したのが南方開発の端緒で、その後、西晋の短い統一期間を経て、南北朝時代に大きく発展します。

先のご回答にある15世紀はなんぼなんでも言い過ぎで、隋唐の統一期には、もう南方のほうが生産力で上回ってます。隋の煬帝が長江から北京あたりまでを結ぶ大運河を掘削したのも、一つには南方の豊かな生産物を北方に輸送するのが目的だったわけで。

呉は少ない人口で広大な面積をカバーしないといけないので、どうしても戦力や治安維持能力が分散してしまいます。
蜀は呉よりも小さな国でしたが、山国でしたから、防衛力を漢中方面に集中できるというメリットがありました。

呉は少なくとも、揚州方面と荊州方面の二か所に軍事拠点が必要で、その上、内陸部にはまだまだ異民族(山越)が多くいて治安の維持も大変。
人口補填のために異民族狩りをやったり、海外へ奴隷狩りをやったり(大失敗してるが)、いろいろ策を練ってますが、まあ、そういう事情で、なかなか積極的に攻勢に出ることもできず、苦労していました。


政情的には、孫権の晩年、張昭の死後から孫権の悪い部分が露出し始めて、家臣団の結束がほころんでいきます。決定的なのは孫権が後継者を決めかねて派閥争いを起こしてしまったこと。これが孫権の死後まで響いていきます。

  • kou********さん

    2020/2/1020:58:32

    ん~~。

    生産力=人口、なんですよね。
    便利な機械がない時代、何をするにも人力です。マンパワーがないと生産力は上がりません。

    人口比率でいえば、隋唐時代初期はまだ北のほうが上で、中期以降にようやく五分五分ってくらいかと思います。まあ、この辺の時代にはそこまで詳しくはないですが。

    問題は、そんな北の人口を支えていたのが南の生産力だということです。
    南の余剰生産を北に輸送することで北の人口は養われている。
    つまり、北だけの生産力では北の人口は養えなくなってきているんです。
    三国時代のような質素な生活なら可能だったかもしれませんけど、まあ、全体が豊かになったということもあるかもしれません。

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yuu********さん

2020/2/917:50:30

人材不足というより、決定的なのは人口不足ですね。
帝国となった呉などは特に魏と土地面積では同じように見えるのですが、古代の中華世界は、現代の国境線で区切られた中国とはまるで異なります。いずれの領域(州や郡)も、全て支配が及んでいるわけではなく、異民族やらがいて、実質的にはもっとスカスカだったのです。中華世界は、ゲームやイラストで現代人が思うような=現代中国の領域とはまるで異なったわけです。開発が遅れていた揚子江以南の呉の領域は特にスカスカで、黄巾の乱などの争乱に伴って後漢末は北支からの大規模な人口移動が起こり、これは三国世界を成立させる要因とはなりましたが、呉蜀の地方政権が魏を制圧するまでの地力をもたらすまでにはなっていなかったのです。開発がようやく進むのは15世紀辺りになってからで、ですから、以後も揚子江以南の政権から、中国王朝が滅多に誕生しなかった無視できない要因です。

このために孫呉政権にとっては、代表的な異民族である山越対策は時に最優先になったりしました。
領域の広さと人口密度の薄さは、必然的にまとまりのなさが伴います。しかも、当時の呉政権は豪族の連合体でまとまりにかけたので尚更でした。これが二宮事件に代表される内部抗争に拍車をかける一因となります。
支配者が同じように人材が揃っていたとしても、それだけでは史実の魏に勝てなかったでしょう。この人材層もおおよそ人口に比例する上に、その輩出する文化の下地も魏の方が整っていたわけですから。

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kil********さん

2020/2/917:33:19

呉は孫権の長男で、後継者の皇太子の孫登が33歳の若さで、孫権より早く死んだのが痛かったと思います。孫登は優れた後継者だったからです。孫登の死後は孫権のぼけと後継者争いで、呉は乱れ衰えて行きます。更に、孫権はぼけてるから、末っ子孫亮を後継者したのを失敗しながら、72歳で死にました。それからはお決まりのお家騒動で、呉は滅亡への道まっしぐらです。そして呉の最後の皇帝孫皓が、西晋の太祖武帝司馬炎に降伏して、呉は滅亡します。ここに、後漢の滅亡から60年にして、西晋が天下統一を成し遂げました。

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