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2020/4/29 23:30

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日本人の戦死の数はどのくらいですか?

日本人の戦死の数はどのくらいですか? 質問が下手ですが、どのくらいの国民数で、何人出兵して、何人死んだのか。 一つの町から、男性兵士や女性の軍属看護婦などで、かりだされたのは何千人何名くらいだったのか。 日本の家族の数、何家族中、なん家族が兵隊にかりだされたのか 大体でいいですがわかりますか?

補足

例えが悪いですが、家族数でいうと、国民大半で家族の中になんらかで出征しているか、家族もろともロシアや支那に行っている また、女子なら軍属になってお世話をしたり、徴用したり、婦人なら国防婦人会をやったりでどの家族も戦争に駆り出されている気がします。 日本を出てないのは農家と官僚と政治家かなぁとか考えます 。 私のひい爺さんは…ドコドコで戦死… 僕のおじいさんは…ドコドコとドコドコに出征した とかあります。 しかし私のおじいさんは…?行ってないのか聞いたことない。とかもありますが、 おそらく話していないだけで、先祖では明治、大正、昭和となんらか関わっている気がするんですが、 10家族あったら何家族は戦争な出征していたんでしょうか。

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日中戦争、太平洋戦争合わせて、日本軍の参戦総兵員数は延べ一○○○万人にのぼり、日本人の男子総数の四分の一、該当年齢層の男子約一七四○万人の七○%に及び、ほぼ二世帯に一人の割合で出征兵士を出していた。陸軍の参戦総員数は約七一二万人、海軍の参戦総員数は約二八九万人。日中戦争、太平洋戦争合わせて、民間人死者を含む総死者数は約三百十万人以上があったとされている。「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」(経済安定本部総裁官房企画部調査課)によれば、昭和十二年七月から昭和二十年八月までの軍人・軍属・民間人の犠牲者数の総計は三○四万四四七八人となる。昭和二十年八月十五日以降の軍人・軍属の戦死者数も、約一八万九○○人に達している(戦後の戦傷病死を含めると五百万人になるだろうか)。昭和二十年八月十五日の終戦の時には、陸軍は地上部隊は内地に総軍司令部二、関東軍など外地の総司令部三、方面軍司令部一七、軍管区司令部一○、軍司令部及び相当のもの四三、地上師団一六九、旅団二、独立混成旅団九九。航空関係も、航空総軍司令部一、航空軍司令部五、飛行師団九、戦闘飛行集団二、飛行団二一で約五四一万人、総兵力約五四七万人。海軍総屯数七○万八千屯、軍人約一六九万人、軍属約九一万人、総兵力約二六○万人になっていた。終戦時、陸軍一九四個師団ある内の生存兵力のうち、中国が一○六万人、満洲が六六万人、南方戦線が八一万人、日本本土が二三七万人(沖縄を除く)。海軍生存兵力は、外地全て合わせて約四五万人。昭和二十年八月二十日から二十四日までの間に、北海道周辺の海域で北海道上陸作戦(二十四日上陸予定)のため偵察中のソ連潜水艦による引き揚げ船六隻撃沈破で、死者数計一七○八人に上る。只、確認された遺体が一七○八体であるだけで、実際に船に乗っていた人数さえ不明である。昭和二一年に第二復員局が纏めた資料では犠牲者数を五○○○人と推定している。当時、疎開船は定員を無視して、乗れるだけの人を無理やり詰め込んでおり、乗船名簿すら存在せず、今となっては調べようもない。戦争末期の三ヶ月だけでも死者数は六○万人を超えている。死者のうち約八割が最後の半年間で亡くなっている。軍人『直接軍務に服した狭義の「軍人」のほか、「准軍人(陸海軍の学生、生徒など)、陸海軍部内の「高等文官」(技師、司政官、教授など)、同「判任文官」「従軍文官」など。』の戦没者約二百一万六千人、軍属『「有給軍属」(雇員、工員など)、「日赤救護看護婦」、逓信省・鉄道省、南満洲鉄道株式会社などからの陸海軍への「配属者」、「船舶運営会船員」など。』の戦没者約十四万八千人、准軍属『旧国家総動員法等に基づく「被徴用者」(徴用工、動員学徒など)、「満州開拓青少年義勇隊員」、「陸海軍の要請による民間人の戦闘参加者」(沖縄の鉄血勤皇隊、ひめゆり部隊、疎開学童死没者、集団自決者の一部など)、隣組で指名された「防空監視隊員、警防団員」、「従軍報道班員」、「軍需会社の正社員」。』の戦没者約十一万九千人。嘱託『消防団員、水防団員、一般事務補助業務』の戦没者約八万一千人。以上のデータには、朝鮮人、台湾人の軍人、軍属、准軍属は、含まれていない。陸軍軍人戦死者約百六十四万七千二百人、軍属約十六万四千九百人。海軍軍人戦死者約四十七万三千八百人、軍属約一万六千人(うち外地約二一○万人)。民間人約八○万人(うち外地約三○万人、国内約五○万人)。これに昭和六年から昭和十一年までの満州事変での戦死者約六万人、昭和十二年から昭和十六年までの日中戦争での戦死者約一九万人が加わると総計二一二万一千人戦死している。終戦後も帰国せず、現地に残った人が約一万人いたとされる。昭和十二年七月の日中戦争勃発以降、昭和二十年八月の敗戦まで、中国大陸で戦死した(朝鮮人・台湾人を含む)日本陸軍兵士は約四三万五六○○人、海軍約二万一○○人、合計約四五万五七○○人。ソ連軍侵攻による戦いで陸軍約四万五九○○人、海軍約八○○人が戦死した。合計で約四万六七○○人に達し、総合計で五○万二四○○人に達した。別の史料によると、総合計で七一万一一○○人に達し、海外の戦没者の三分の一強にあたる。四年半に及ぶ日中戦争では、昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃の日までに、じつに一○○億円(現在の貨幣価値では約二○兆円)もの戦費が投じられた。フィリピンのみでも、戦死した日本陸海軍兵士は約五一万八○○○人に上り、日中戦争以降の日本人戦没者の実に六分の一を占める。戦没者の五人に一人がフィリピン戦に関係する。日中戦争は八年続いたが、フィリピン戦はわずか三年九か月にすぎない。地域別では中国に次ぐ多さである。日本本土(周辺を含む)九万九九○○人。小笠原諸島一万五一○○人。沖縄諸島八万八九○○人。樺太・千島(アリューシャンを含む)一万一○○○人。昭和十九年一月一日以降の軍人、軍属、民間人の戦没者数は二八一万人であり、全戦没者のなかで昭和十九年以降の絶望的抗戦期の戦没者が占める割合は実に九一%に達する。米国の著名な日本史研究者であるジョン・ダワー教授によれば、太平洋戦争での米軍の全戦死者数は一○万○九九七人。このうち昭和十九年七月以降の戰死者数は少なくとも五万三三四九人であり、絶望的抗戦期の戦死者が全戦死者に占める割合は少なくとも五三%である。日本兵の戦死者の大半を占めたのが、大正生まれの若者である。大正元年生れは、昭和二十年には三十三歳、大正十五年生れは、十九歳となっていた。すなわち太平洋戦争は、大正生まれの若者たちによる戦争だったのである。大正生まれの男子の総数は一三四八万人。そのうち七分の一にあたるおよそ二○○万人が戦死している。特に戦死者が多かったのは、大正七年から大正十二年までの間に生れた男子たちだった。日本殉職船員顕彰会の調査によると、昭和十二年七月の日中戦争から、太平洋戦争終結までの八年間に海没した船員数は、各種船員の戦没者六万○六○九人(船を沈められた船員、延べ十五万二千三百人、船員徴用令によって徴用動員された船員が延べ十万九百三十人であったとされているから、平均して全員が一・五回撃沈のうき目にあい、火と油の海を泳いだことになる。おそるべき“遭難頻度”というべきである。なかには九回も遭難した体験をもつ船員もいるという)。機帆船の乗組員の戦没者数は一万六八五六人、全ての徴用漁船の乗組員の戦没者数は一万三二四四人。太平洋戦争で失われた大型商船を含むすべての民間船舶の戦没者六万○六○九人のうち商船の乗組員の戦没者は、三万○五九二人であり、ほぼ半数の約三万○一○○人が徴用小型船舶(漁船や機帆船)の乗組員である。昭和二十年八月十五日まで二万一六七七人もの船員が戦没し、八月十六日以降一一七二人が戦没している。

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとうございました。 遅くなりましたが、知りたい部分がわかりました。

お礼日時:5/6 19:40