日蓮正宗の方にお聞きします。 大石寺の戒壇の御本尊と、各家庭の御本尊は、能開と所開の関係にあるとお聞きしましたが、本当でしょうか。

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正宗ではそう言っていますが広げ過ぎな気がします。 もともとは法華経方便品の「一仏乗に於いて分別して三と説きたまう」をもとにした、爾前の三乗法を開き法華一仏乗に会入するという天台が立てた法門から来ていますよね。 爾前と法華を比較して法華の真実の妙義を顕わすことが「能開」で、爾前権教を法華経の本体に帰入し、体内の権として法華経の正義のために活現されることが「所開」です。 体内の権といっても、体内の実に及ばないのですから、「能開」の法華経と「所開」の爾前権経には厳然と勝劣浅深の区別があることは当然です。 日蓮大聖人は 「法華経に二事あり。一には所開、二には能開なり(中略)此の法華経は知らずして習い談ずる物は但爾前経の利益なり」(一代聖教大意) と仰せです。 このことは日寛上人の 「爾前は所開・迹門は能開、迹門は所開・本門は能開、脱益は所開・下種は能開なり」(観心本尊抄文段) とのご指南の通り、「能開・所開」の立て分けは、権実のみならず、本迹・種脱と三重秘伝によって拝する必要があります。 さらに大聖人が 「下種の二妙実行の本迹。日蓮は脱の二妙を迹と為し、種の二妙を本と定む。然して相待は迹、絶待は本なり」(百六箇抄) とご教示のように、文底下種人法一箇の南無妙法蓮華経は「本」にして「能開」であり、釈尊の脱益仏法は「迹」であり「所開」となります。 現日蓮正宗においては、この法門を拡大解釈し、 >大石寺の戒壇の御本尊と、各家庭の御本尊は、能開と所開の関係にある などと、本尊にレベルや優劣の違いを設けていますね。 大石寺の弘安二年の楠板本尊が最高パワー、その次が末寺の本尊、最低が家庭本尊というわけです。 したがって一般信者は十分なパワー(功徳)が得られないため、時々は末寺に参詣したり本山大石寺に登山して充電しなければ不完全燃焼に終わるのです。 このオリジナル教義が「僧上俗下」にもつながり、日蓮仏法とは縁もゆかりも無い「日顕宗」という新興宗教に仕立て上げていると思います。 こうした「ご都合主義」を様々な進言により改革させようと努めてきた創価学会を大義名分無く「破門」にしたために「水泡」「元の木阿弥」になってしまったのが、現日蓮正宗大石寺と言えるのではないでしょうか。

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その他の回答(2件)

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私は能開とか所開はよくわかりませんが別の方のコメントに記されているあなたのコメントで、あなたは誤解してる部分があると思いました。 あなたは 「第26世日寛上人も、また日達上人もそのようなことは言われておりません。」 と、日寛上人の言葉なら信じるようですね。 あなたは、 >その能開所開を、戒壇の御本尊と各家庭の御本尊の関係に当てはめているのは、現在の宗門が、信者をつなぎとめておくためです。年に何回かは登山し、大御本尊に縁しないと、家の御本尊だけを拝んでいても功徳はないというのはその為であります。 と、述べてますね。 第26世日寛上人は 『法華取要抄文段』に、 「広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり。妙楽云く「像末の四依、仏法を弘宣す。化を受け、教を禀け、須く根源を討ぬべし。若し根源に迷う則は増上して真証に濫る」等云云。今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。宗祖云く「根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し」」 家庭の御本尊は枝であり、本門戒壇の大御本尊が根源であると述べてます。 実際、家庭の本尊には「奉書写之」とあり、大御本尊を書き写した本尊であります。 さらに、日寛上人の言葉には根源に迷うものは真実の悟りが乱れるとあります。 ですので、大御本尊まします大石寺を根本道場にすべきですので、別に信者をつなぎとめておくためではないです。

日蓮正宗法義研鑽委員会から出版されている、創価学会『ニセ本尊』破折100問100答という本の中に、「したがって、本門戒壇の大御本尊とその他の御本尊は、もとより能開と所開の関係に有ることを知らねばなりません。(中略) 大聖人は、題目弥陀名号勝劣事に、『能開所開をわきまえずして物知り顔に申し侍るなり』(全集115頁 取意)と仰せですが、現在の創価学会は、まさに大聖人のこの厳しい責めをこうむる大謗法を犯しているのです。」と書いてあります。 御書『題目弥陀名号勝劣事』には「妙法蓮華経は能開なり南無阿弥陀仏は所開なり、能開所開をわきまえずして南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知り顔に申し侍るなり」とあり、ここは爾前経の南無阿弥陀仏と、法華宗の南無妙法蓮華経の勝劣を論じているところであります。その納開と所開の関係が、どうして戒壇の御本尊と、各家庭の御本尊との関係へとつながっていくのか、という疑問です。

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一応教義上そうなっています。 ですのでご本尊に関する手続きは所属寺院を通じて大石寺に申請します。 で全てのご本尊は大石寺管理で日蓮正宗の信徒て世帯主にわかりやすく言えば貸し出しになります。 一連の手続きの決定権は大石寺の猊下が専権事項として猊下の名の下に行われて、きちんと全て日蓮正宗のご本尊に安置時に開眼供養を行います。 また世帯主死亡相続のは場合、そのご本尊場合返還して、相続筆頭の日蓮正宗信徒に改めてご本尊を御下附されます。 大石寺の本門の御戒壇と各家庭のご本尊は例えが不適切ですが無線機のトランシーバーみたいな関係にあるとされていますが、実際にはトランシーバーの電波が目に見えないように大石寺の御戒壇と各家庭のご本尊の繋がりは見えませんので証明のしようもありませんが。

一応そうなっているというのは、日蓮正宗の教義では、戒壇の御本尊と各家庭の御本尊が、能開と所開の関係にあるという事を認めるという事なのですね。