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2020/8/7 22:22

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史記の戦国時代の各国の領土や、キングダムに描かれる各国の領土について質問です。

史記の戦国時代の各国の領土や、キングダムに描かれる各国の領土について質問です。 史記の戦国時代の記述だと、秦の領土は、連載開始の紀元前245年の時点で、趙・魏・韓の真ん中をえぐるように、領土を取っていて、魏の都大梁に迫るほどだった思うのですが、漫画の中で領土が地図として描かれても、秦の領土はかなり控えめに描かれていると思います。 例えばキングダム5巻の、蛇甘平原の戦いの前に、魏の玄関口のケイヨウを目指すシーンが地図付きでありましたが、史記ではケイヨウは韓の土地で、漫画の4年前の紀元前249年に秦の蒙ゴウ将軍が取っているようです。 これは、もちろん実際は秦が他国を圧倒する程巨大だったのをそのまま漫画で描くと、漫画的には面白くないので、秦の力を控えめに描いて他国も強敵だった、という風に描いた方が面白い、という都合だとは思います。 しかし、史実では前247年の魏の信陵君の合従軍を前に、秦の軍は函谷関まで撤退したと史記に書かれているので、もしかしたらその時、ケイヨウや他の多くの土地も元の国、または魏の国のものになってしまったのでしょうか。 キングダムがそれを再現しているとか・・・。5巻は信陵君の影響を感じさせる描写が多少ありましたが・・・。考えすぎでしょうか。 質問をかいつまんでいうと、「秦は紀元前247年の魏の連合軍に函谷関まで退くことになったようですが、その時函谷関より東の領土は失ってしまったのでしょうか」です。 漫画から得た疑問だからと馬鹿にしないで、皆様のご意見をお願いします。

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回答(2件)

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函谷関は近代まで難攻不落と言われた関所で、パリの凱旋門みたいなごつい施設が狭い渓谷に築かれてました(実際には数か所の関所の総称でもあり、漢代には別な場所に移されたり、後代には複数個所が復元されたりした)。 戦国魏の領土から秦の領土に行くための道は今も昔も実質ここしかありません。 魏と秦は絶壁の黄河で遮られており、これより北方のオルドス地域は冬に黄河が凍結したときに命懸けで渡る場所でしたし、南方は山脈の峠道です。 劉邦がここを閉めたために項羽の関中入りが遅れ、鴻門の会の原因になってますし、鶏鳴狗盗の故事の場所でもあります。 「始皇)六年,韓・魏・趙・衛・楚共撃秦,取寿陵。秦出兵,五国兵罷。」 始皇本紀と趙世家で、「合従軍が寿陵を取ったあと函谷関で秦軍と対峙したが抜けなかった」、と解釈できる箇所があります。函谷関より西にあるはずの始皇帝が築いてる途中の将来の墓が占領されてから東にある函谷関にわざわざ撤退して東面してる秦軍と対戦するのはおかしな話です(秦軍が守ってる函谷関をワープして関の外に合従軍が戻った!)。 合理的な解釈は寿陵は始皇帝のものではなく、魏か韓のそれを陣地としたあと合従軍が西に向かい、函谷関で待ち構える秦軍と対峙して、抜けなかったので合従軍が解散に追い込まれたということになるかと思います。(あるいは、秦にダメージを与えるため建設中の寿陵を占拠する目的で合従軍が進軍したが結局函谷関を抜けず寿陵にも達しなかった。) 今でも紀元前241年のこの戦闘は現始皇帝陵が占拠されたと中国のHPに記載されてますが、その根拠(現中国の声明)がどこまで本当かわかりません。 函谷関が実際には複数あったり、赤壁の戦いの場所が何か所もあったりする中国では、地名でさえ改名されたり移動したりが日常茶飯で、故実に合わせるためのでっちあげもありますから。

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作者自身が時代考証はけっこう滅茶苦茶で 読むキッカケなればいいくらいに思ってくださいと発言してる