曹操はなぜ相国にならなかったのですか。正史と演義両方の答えお願いします(片方でも構いません)。

曹操はなぜ相国にならなかったのですか。正史と演義両方の答えお願いします(片方でも構いません)。

補足

正史と演技両方とは、ノンフィクション・フィクションそれぞれという意味です。

ベストアンサー

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相国という官位は戦国時代にはよくある宰相ポストでした。 戦国末期の秦で大きな力を持った呂不韋が相邦(邦=国)でした。 相国と基本的に同じ地位に丞相がありました。 秦では、相邦(相国)は特殊な地位で、 左右の丞相を宰相のポストにしました。 前漢は基本的に秦のシステムを継承したため、 宰相ポストは丞相を使用しました。 ただし、蕭何と曹参は特別扱いで相国に任じました。 (あとは呂后時代の呂産) その後は、宰相は一貫して丞相でした。 ところが、前漢末期に大司徒と改名されました。 https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%8F%B8%E5%BE%92 後漢が成立してからも、しばらく(光武帝時代)は 大司徒が宰相のポジションでした。 建国の功臣の鄧禹などが大司徒に任命されています。 しかし、すぐに司徒と改められました。 ですから、後漢の宰相のほとんどは司徒でした。 例えば、袁紹のご先祖である袁安や、 四知の楊震などが司徒になっています。 董卓は、司徒を相国に改名させたのではなく、 司徒を含めた三公の上に、いにしえの相国を復活させたのでした。 例えば、後漢中期に独裁権力を握った梁冀は大将軍の地位に 留まっていました。 (司徒にも就任していない) https://kotobank.jp/word/%E6%A2%81%E5%86%80 董卓にとっては、大将軍に就任して皇帝を傀儡にするという シナリオもあったはずです。 しかし、そうせずに相国を復活させるという独自路線を 取りました。 董卓に対するクーデタの首謀者が、司徒の王允だったのは 皮肉というべきかもしれません。 董卓の死後は、相国は設置されず、再び司徒が宰相ポジションに 返り咲きました。 しかし、中央政府の威光は地方に届かなくなり、 司徒といっても名ばかりの存在と化してしまいました。 208年に、曹操は司徒を含めた三公を廃止して 丞相を設置し、そのまま丞相に就任しました。 じつは、曹操も董卓と似たようなことをやっていたわけです。 三公制度にメスを入れようとした董卓よりも、 さらに進んだ大改革を行って丞相を復活させたわけです。

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その他の回答(3件)

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曹操は将来的な漢帝国の廃止を目指してたので相国になるかどうかには特に拘りがなかったのだと思います 自分達で廃止することを決めた朝廷の官位を今更もらっても嬉しくないでしょう。 なので魏王国を作り部下にも魏王国の官位をあげたのでしょう。 官位をもらう立場ではなく与える立場の方が気持ち良かったのだと思います。

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相国って官職は、わかりやすく言えば野球の永久欠番です。 かってこのポストに就いた蕭何の功績を讃えて、誰もこの職には就けないと暗黙の了解で後漢末まで空席のままだった官職です。本当ならば漢が滅ぶまで誰も相国には就かないはずでした。 つまり、自ら相国に就いた董卓がルール違反した「例外」なのであって、曹操がそれを真似する理由も必然性も全くないのです。むしろ真似したりしたら董卓と同じく批判の嵐に晒されて人心を失っていたでしょうね。わざわざそんなバカなことはしませんよ。 演義のほうで曹操が相国にならないのは、ごく単純に「史実で相国になってないから」です。演義は大筋で史実通りに話を進めますので、曹操を相国に就けたりといった史実から逸脱するような話にはなりません。そもそも巷にあふれる講釈話をまとめた集大成が『三国志演義』であり、まとめられる際に尾ひれの付いていた荒唐無稽なストーリーをカットして史実に寄せていると言われるのが演義です。だから無茶な改変はないのです。

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正史も演義も違いはないというか、「なぜ相国にならない」とかの記述はありません。 相国は漢王朝の初期に任官があっただけで、事実上廃止されていたポストです。これをを復活させて就任したのが、曹操の宿敵の董卓です。 漢王朝の庇護をうたっていた曹操が、その相国になるはずがありません。 丞相で、人臣の最高位になるので、あえて相国になる必要はありませんでした。