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盛世滋生人丁は康熙帝時代の部分的な税役免除措置、地丁銀は徭役を土地税に吸収して銀納で一本化したもの(実質的な徭役賦課の全面廃止)。 盛世滋生人丁は分かりにくい用語ですが、要は康煕51年(1711)時点での人口を基準に、それ以降新たに生まれた成人男子には、永久に税役を課しませんという免除措置です。 これは清の統治が安定し、食糧生産が増えたことに伴う急速な人口増加が背景にあります。康煕帝時代には総人口が明の時代と同等かそれ以上に達しましたが、同時に受け皿になる耕作可能な土地が少なくなっていきます。 そうなると土地を持たず、佃戸等零細な仕事に従事せざるを得ない者が増えることになります。この時代の税制は明を踏襲して土地税と徭役の銀納による二本立てでしたが、土地税はともかく徭役の方が払えずに逃げて流民になる者が続出しました。 それでは治安リスクになり困るので、康煕51年時点の人口統計をもとに、これ以降成人に達した者には土地税・徭役は賦課しないとしたわけです。 ※徭役は元々既定の日数役所や公共事業で働くものでしたが、唐あたりからこれを免除する代わりに一定額の銭を納める方式が導入され、明では銀納化が進んでいました。 また、王朝側の行政組織にも問題がありました。清代では、行政の最末端である県の数が、数百年前の宋とほとんど変わっていないので、この規模では膨大な人口を把握しきれず、調査も十分にできませんでした。 徭役は人頭税のようなものですから、盛世滋生人丁の時点で、実質的に清は人口を逐一把握することを諦めたとも言えます。 ところが盛世滋生人丁は、新たに生まれた人には課税しませんが、それ以前に把握していた人は元通り課税するという不平等な制度でした。おまけに元々の人口が減ればその分減収になりますが、その埋め合わせはどうするん?という問題も出てきました。 それじゃあいっそ徭役は土地税と合体して、土地を持たない人は税払わんでもいい、一切の税は人じゃなくて土地を基準に徴収するわという発想で実施されたのが、雍正帝時代の地丁銀です。

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