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2020/9/20 21:41

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呉楚七国の乱以降、なぜ実質的には郡県制と変わらない体制になったのでしょうか。

呉楚七国の乱以降、なぜ実質的には郡県制と変わらない体制になったのでしょうか。

中国史13閲覧

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呉楚七国の乱までは、諸国の王(全員皇帝の親戚)が各自直接領地内を治めていましたので、諸国は実質的に独立国のようでした。 中央政府は漢王朝ができてしばらくすると、次第に諸侯の力を弱めて、中央政府の力を強めたいと思いました。 景帝は諸侯の力を削ごうという鼂錯の言を入れ、諸侯王の力を押さえ込むため、些細な罪など口実を設けては領地を次々に削り始めたのです。そこで、諸侯は中央政府に反乱を起こしました。これが、呉楚七国の乱です。 呉楚七国は、中央政府に負けてしまいました。負けたのですが、景帝は諸侯を廃する事はせず、相という役人を諸国に派遣して、地方の政治をその相がすることにして、諸侯を名目だけのものにしました。諸侯を名目上だけのものにしたことを以て、郡県制と変わらない体制になったと評価されています。 景帝の次の武帝の時には、さらに諸侯を締め付ける(諸侯に複数男子がいる場合は、長子以外の男子に遺産や土地を相続できるようにした等。しかし、任意ではさほど諸侯の力を削ぐことにならないと思いますけど。)政策を実施し、漢は中央集権になったと評価されています。教科書的には、漢の中央集権国家化は武帝の時とされています。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

タメになる詳しいご回答誠にありがとうございます。 とても助かりました^^*

お礼日時:9/21 1:01

その他の回答(2件)

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秦の時代の郡県制は、各地域の行政区が ○○郡△△県といった形に統一されていました。 漢代の郡国制は、 ○○郡△△県というパターンと ◎◎国××県というパターンの二種類がありました。 郡が設置されている地域は郡県制の地域で、 国が設置されている地域が封建制の地域でした。 呉楚七国の乱とは、呉国や楚国に封建されていた諸侯王が 反乱を起こしたということでした。 この段階の国は、郡でいえば数郡を合わせた面積で、 諸侯王たちは非常に大きな力を持っていました。 この反乱を鎮圧すると、諸侯王の権限を削ぎ、 国も郡と同じくらいの面積に分割していきました。 皇族(劉氏)が封建され諸侯王になるという形式は残りました。 ですから、形式的には郡国制でした。 ただし、諸侯王は封地に赴任せず、基本的に飼い殺しされる ようになっていきました。 郡の長官は太守といいました。 太守は中央政府から派遣された官僚でした。 (つまり郷挙里選で登用された人) 一方、国のほうも統治するための長官が派遣されていました。 それを相と言いました。 もともと、実際に国を支配していた諸侯王の宰相がいたのですが、 相(=宰相)が郡の太守と同じような地方長官のポジションに なったのでした。 つまり、郡と国という名前の異なる地方行政区があったのですが、 武帝の時代あたりから、実質的には郡=国として扱われる ようになっていきました。 これは、後漢でも同様でした。 例えば、後漢末の英雄の曹操は、済南の相を務めた後、 東郡太守に任命されています。 済南の相とは、済南国の相という意味で、 実質的には済南郡の太守と同じ意味でした。 つまり、実質的には郡県制とはいえ、建前としての 郡国制は後漢末まで残っていたということになるのです。