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2020/9/29 3:32

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小早川秀秋は家康の陣が移動したことを見て、大谷吉継に仕掛けたとする説がありますが、葵徳川三代では、家康が陣を移動したのに、

小早川秀秋は家康の陣が移動したことを見て、大谷吉継に仕掛けたとする説がありますが、葵徳川三代では、家康が陣を移動したのに、 小早川秀秋の陣に砲撃していますよね? どっちが正しいのですか?

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小早川秀秋は黒田長政を通じて関ヶ原戦以前に寝返りを確約していました。三成が準備した松尾山の陣城を占拠し、三成の作戦を骨抜きにした時点で決定的でした。 様々な小説やノンフィクションでも業を煮やした家康が秀秋の陣に鉄砲を放って威嚇したという説が語られてきました。しかし最近は、松尾山に向かって鉄砲の威嚇音は聞こえていたとは考えられないことや関ヶ原の合戦自体が比較的短時間で大勢が決した説が有力になってきたため、否定的になっています。 ただ、秀秋が最初両軍の様子を傍観していたことは事実でしょう。小早川軍の動静を伺って動けなかった脇坂・朽木などの部隊がそれを示しています。伏見城の戦いに西軍で参加した秀秋の寝返りを快く思わなかった家臣もいて、筋の通らない行動であったのも事実でしょう。この時期かなりのアルコール依存症であったので、ひょっとすると松尾山の陣でも酒をあおって最終判断を鈍らせていたのかもしれません。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとうございました

お礼日時:10/1 0:17

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小早川軍には最初から徳川方からの参軍武将が陣地にいましたね。石田側から参軍武将いなかったのが決定的でした。

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先の回答にもあるように、徳川家康からの銃撃があっても、距離があるし、戦場の銃撃と判別したりするのは難しいので、この説は下火になっています。 「家康の移動を見て」というのは、こうした「問鉄砲」否定説のおかげで生まれた、次善の説ではないかと思います。 しかしこれも、小早川隊は逡巡せず西軍に攻め寄せたとする説や、そもそも戦場と布陣図が正確でないという説もあるため、あまり突き詰めても徒労に終わるかもしれない面があります。

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徳川家康の銃撃で小早川秀秋は東軍に寝返る決断をしたので、葵徳川三代の砲撃が正しい事になります。

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