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呉はなぜ軍港になれたのか?

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回答(6件)

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呉軍港が誕生した時代はまだライト兄弟の有人飛行も成功していなかった時代で、島国の港を攻めるとなると船で直接上陸するしかなく、内海という立地は守る側は陸地に砲台を設置すれば防衛が容易であったこと、更に言えば呉は複数の島が呉港を覆い囲う様に並んでいた為に、建造や修理に使うドックを置いたり停泊する場所、つまり無防備になっても大丈夫な場所として選ばれたのだと思います また呉周辺の山々が採石場となっており、軍港開設に必要な大量の石材を近場で採石して運搬の労力と費用を削減したかったというのも理由の1つです(実際に呉に行くと住宅が山の斜面に沢山建てられているのですが、これは採石場跡の段差に住宅を建てていった為です)

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海底が深く湾が入り組んでいて敵に攻め込めれにくいという好立地なことが要因の一つだと思います。

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呉単体ではなくて 広島と広島湾周辺も含めてです。 日清戦争当時、広島大本営が置かれて明治天皇・皇后も広島入りし、 第7回帝国議会も広島で開かれた。 短い期間ですが、広島に日本の首都機能がありました。 広島湾は陸側へ大きく入り込み、瀬戸内航路の北になりますが 航空機やレーダーが無い時代では、屋代島(周防大島)に連なる島嶼で、 湾内が航路から目隠しになり、全く見えません。 帝国海軍の主錨地は、広島湾のほぼ中央にある柱島の南で 小さな島々にぐるっと囲まれ、 湾内を航行する船から見えにくく、艦も島と間違えそうになる。 錨地は広く、大型船の団体さんでも受け入れ可能。 そんな感じです。 特に、呉から広島、岩国にかけて人口が多い地区からは 島々が邪魔して全く見えない。 波も穏やかで台風の影響も受けにくいので通船交通にも適しており、 通船桟橋も、広島宇品・岩国・呉川原石・呉警固屋(鍋桟橋)と、 ぐるっと囲むように整えやすかった。 また、他の回答にもありますが 呉は陸岸ギリギリまで水深がしっかりあるので 潜水艦基地にも適している。 横須賀の海自桟橋から出港すると底泥が巻き上がりますが 呉は全くありませんし、浚渫も二本の河川付近が主ですが ほぼやらなくて良い程度。 当初から海軍工廠も呉・広に整備され 吉浦・広の燃料基地、江田島・広・西条の弾薬庫 江田島の海軍兵学校、等々後方支援設備・工場もこの地区にあり、 武器に限らず全ての補給の面でも優れていた。 三原・尾道は錨地が無く、潮が早く浅瀬も多い、 布刈瀬戸より南なら航路から丸見え。 竹原は狭すぎて船を付ける岸壁も無い。 福山港ですが、出入りする大型船は浚渫航路しか通れません。 鞆の浦付近なんてメチャ浅い。 思うには 広島湾という天然の良好な錨地。 これを使い切る。性能を発揮させる意味で、 広島ー岩国ー呉という、テクノクラートが整備された。 そういう事ではないかと。

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めっちゃ詳しくありがとうございます! 呉だけでなく、岩国・広島を含めての要塞だったのですね! 航路から見えないというのも勉強になりました。船に乗ってみてみないと気づきにくい視点をありがとうございます。 今は何もない安浦、広に燃料基地があったというのも驚きです! 錨地とかの話も、理解できてませんがなんか色々あるんですねー。

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逆に三原、福山、尾道が軍港に選ばれない理由です。 一番は浅い海底です、軍艦、大型船舶が入れ無いからです。 現在のように浚渫技術が未熟な明治では浅い海底では船が入れ無いからです。 江戸時代は千石船や北前船等の木造船は舟食虫の虫害を恐れ淡水域に船を入れて船を守る必要が有り、三原、尾道、福山が港として栄えた訳です。 大阪でも船場や木津川口が江戸時代の港で明治の軍艦係船地が天保山沖です。

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呉に海軍鎮守府が置かれたのがそもそもの始まりです。 呉は周りを島で囲まれていて4つの狭い海峡を通らないと入れませんでした。 そのため防御に適していました。 また周囲に平地が少なく機密保持がしやすかったことと当時は集落もほとんどなく土地買収がしやすかったことも要因の一つです。

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