三国志についての質問です。 蜀の劉禅の、魏に対する降伏と、 勝海舟の江戸無血開城はどう違うんですか?

補足

歴史好き(プロの歴史学者とアマの歴史ファン)の間で、劉禅が本当に暗愚立ったのか、という議論が地味に盛んですが、真相や如何に?

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

僅差で、あなたのにしました。 他の方々も、丁寧で緻密なご回答、ありがとうございました。

お礼日時:10/24 15:31

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日本史は専門外なので、江戸城に関しては何も語れないですけど、劉禅に関しては「中の下~下の上ぐらいの凡人君主」だと思います。 本人が挙げた功績はほぼ皆無だが、致命的な失策もやってはいない。蜀が弱小なので、順当に国力差に押しつぶされて負けた…という感じです。 お話での扱いが「どうしようもないダメ君主」という扱いなので「そこまでひどい君主ではないよな」ってところです。 一応ツッコミを入れると ①黄晧が姜維の援軍要請を握りつぶしたので、無警戒だった蜀首脳陣は大混乱。劉禅は最初臣下の意見を受けて、南方に逃げる気でした。 譙周が「南方に逃げるのは悪手。降伏が最善策」と主張したので、降伏することにしたのです。降伏は劉禅の発案ではありません。 ②緊急の事態を知らなかった劉禅らは大きな抵抗をしていませんが、前線にいた姜維らは激しく抵抗しています。また劉禅も諸葛瞻に最後の望みを託して迎撃に出しています。 その諸葛瞻戦死で打つ手がなくなったから降伏したのであり、攻められてさっさと降伏した・戦死者を出したくないからおとなしく降伏した…というわけではありません。 よって犠牲者も多数出てます。 ③また、この時降伏を主張したのは譙周ぐらいで、多くの臣下は逃亡、または呉への亡命を主張しました。つまり蜀の世論は「抗戦継続」だったわけです。 劉禅自身にカリスマ性はないので、この世論を抑え込むのは無理だったでしょうね。

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鳥羽伏見で朝敵となり、大坂城に旧幕臣を置いてきた時点で勝負ありです。 劉禅の場合は、漢という旗を掲げながら攻められればすぐに降伏しました。父である劉備の何を見てきたのでしょうか。

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劉禅は犠牲者を出さずに降伏して偉かった、というのがあなたの話の前提ですが。 降伏後の蜀では鍾会の乱が起き直接荷担した姜維、巻き込まれたらしい張翼や劉禅の皇太子の劉璿ら多数の死者を出しています。 鍾会の行動はどうしようもないにせよ劉禅の不戦の意志が固く威厳が浸透していれば蜀人の犠牲はなかったはずでとても劉禅が優れた人物とは呼べません。 もっとも引き合いに出された江戸城の無血開城も江戸城「だけ」の無血にすぎず上野戦争から北関東、東北へと戦いは続いたわけですから似たようなものですが。

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劉禅は結果論で低評価なのではなく 降伏後に無神経な言動をしたことが低評価の原因なのです。 実績評価じゃなく感情評価 本人の才覚は低かったし 腐敗もありましたが、史上最悪レベルの暗君ということはない。

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