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ハンニバルのアルプス越えのように軍隊が突破不可能とされてる場所を通って戦った例を教えてください。

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回答(7件)

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インパール作戦ですかね。 歴史上、インド亜大陸を東から攻めて成功した例は無いのですが・・・ 日本もその例の一部になりましたね。 ボースのインド国民軍を使う、ビルマ軍を使う、そもそも攻めない、バングラデシュ一帯で起きた飢饉を活用する、などなどアジアの英艦隊は殲滅済みなのでいろいろと手立てはあったのですけどね。 英の陸上戦力であるインド人兵は煽れば英国からの独立を目指して決起してくれる、英本土からの援軍や物資を遮断するだけで可能だったのにねぇ。イラクら中東でも反英の火の手が上がっていましたし無理攻めしなくてもよかったのに・・・馬鹿正直に陸軍の師団で行軍してボロ負けしました。英国というよりジャングルと飢餓によって。

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そういえばインパール作戦もでしたね 突破不可能とされた山岳地帯で活動するイギリス軍を見て、作戦を決行してしまったとか イギリス軍は少数で空中補給を受けながら活動してたわけですが

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越後の上杉謙信の軍勢は 難所と、いわれた越中の親不知 という断崖絶壁が続く海岸の 狭い道を通り抜ける行軍して 加賀の手取川で織田と合戦。 越中の難所は敵の攻撃を防ぎ ながら突破は不可能でしたが 、その時期、上杉は北陸の 一向一揆と和睦していたため 上杉軍は越中や能登では敵に 攻撃されなかったから。

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オスマントルコ帝国軍による コンスタンティノープルの攻略。 陸上で船を作って それを川に運んで それで その船に兵士たちが乗船して コンスタンテノープルの湾に入って 城を攻撃する。 これ、頭いい作戦だね。 ↓ コンスタンティノープルの陥落(コンスタンティノープルのかんらく〈ギリシャ語: Η Άλωση της Κωνσταντινούπολης〉)とは、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)が陥落した事件である。 この事件により東ローマ帝国は滅亡した。また、「ローマ帝国の滅亡」は476年の西ローマ皇帝の廃止とするのが一般的ではあるが、この東ローマ帝国の滅亡がローマ帝国の滅亡であるとする識者も多い。 メフメト2世の野望 約1000年にわたって難攻不落を誇った「テオドシウス(2世)の城壁」 この戦争の以前には、オスマン帝国と東ローマ帝国は表向きは平和的な関係にあった。 この時代になると「帝国」という名前とは裏腹に、東ローマ帝国の領土は首都コンスタンティノープルと、ペロポネソス半島の一部モレアス専制公領(古代スパルタ近郊にあるミストラの要塞が首府)を残すのみとなっていた。 ローマ帝国が東西に分裂して以来、コンスタンティノープルは幾度となく攻撃を受けてきたが、占領されたのは第4回十字軍による一回だけであった。10世紀のブルガリア帝国君主シメオン1世や14世紀のセルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンのように、東ローマ帝国を完全に征服しようと意図した者はいたが、実際に成功した者はいなかった。 しかし、メフメト2世はこれを目指したのである。 開戦の経緯 開戦の経緯については必ずしも明確であるとは言えない。 歴史家ドゥカス(英語版)の伝えるところでは、東ローマ皇帝コンスタンティノス11世ドラガセス(在位1449年-1453年)がメフメトを牽制する意図で、コンスタンティノープルに亡命していたオスマン家のオルハン王子[1]を対立スルタンに擁立すると警告したことに、メフメトが立腹し戦争状態に突入したという。事の次第に驚いたコンスタンティノス11世は和平交渉を試みたが不成功に終わった。 1452年から1453年は世界的な異常気象が起こった「夏のない年」の一つに当たっている。海底火山クワエが複数回爆発したことによる大量の火山灰が巻き散らかされた影響(火山の冬)で冷夏が数年間続いており、そのために大飢饉になったと考えられている。 包囲戦の状況 コンスタンティノープルの包囲戦 メフメト2世は1452年にボスポラス海峡のヨーロッパ側、つまりコンスタンティノープルの城壁の外側に城を建て、攻城戦の足がかりとした。この城は「ローマの城」という意味のルメリ・ヒサルと呼ばれた。コンスタンティノス11世は西ヨーロッパ諸国に救援を求めたもののその反応は鈍く、ローマ教皇ニコラウス5世はこれに応じる姿勢を見せたが実質的な進展はほとんど見られなかった。 コンスタンティノープルを重要な商業拠点とするヴェネツィアとジェノヴァは援軍を送り、東ローマ軍は2000人の外国人傭兵を含めて7000人になった。都市を囲む城壁の総延長は約26kmで、おそらく当時最も堅固な城壁であった。 一方、オスマン帝国側は、スルタン直属の最精鋭部隊であったイェニチェリ軍団2万人を中心とした10万人の大軍勢に加え、海からも包囲するために艦船を建造させた。またハンガリー人の技術者ウルバンが売り込んだ新兵器ウルバン砲を採用して戦局を優位に進めた。 それは長さ8m以上、直径約75cmという巨大なもので、544kgの石弾を1.6km先まで飛ばすことができた。 東ローマ帝国にも大砲はあったが、より小さいもので、射撃の反動で城壁を傷つけることがあった。ただし、ウルバン砲にも欠点はあった。「コンスタンティノープルのどこか」といったような、かなり大きな標的でさえも外すほど命中精度が低かったのである。さらに1回発射してから次の発射までに3時間かかった。砲弾として使える石が非常に少なく、射撃の反動が元で6週間使うと大砲が壊れるという始末であった。 メフメト2世は、コンスタンティノープルが唯一陸地に面する西側の城壁から攻撃しようとし、1453年4月2日の復活大祭の日に、都市郊外に軍隊を野営させた。7週間にわたり大砲により城壁を攻撃したが、十分に崩すことはできなかった。 というのは、射撃間隔がとても長かったため、東ローマ帝国側はその損害のほとんどを回復することができたためである。 一方、メフメト2世の艦隊は、金角湾の入り口に東ローマ帝国側が渡した太い鎖によって、その中に入ることができなかった。途中、救援物資を積載したジェノヴァ船3隻と東ローマ船1隻が金角湾に来航し、オスマン艦隊と海戦になったものの、オスマン艦隊は彼らを拿捕することに失敗した。 東ローマ帝国が、オスマン艦隊の侵入を阻止するため金角湾口に張り渡した防鎖。イスタンブール軍事博物館(英語版)にて展示。 オスマン帝国側は膠着状態を打開すべく、金角湾の北側の陸地(ジェノヴァ人居住区があったガラタの外側)に油を塗った木の道を造り、それを使って陸を越え70隻もの船を金角湾に移す作戦に出た。 「オスマン艦隊の山越え」と呼ばれるこの奇策は成功し、これによりジェノヴァ船による援助物資の供給は阻止され、東ローマ帝国軍の士気をくじくことになった。しかし、陸上の城壁を破る助けとはならなかった。 この間に、コンスタンティノープル政府とメフメト2世との間で和平交渉が形式的に行われた。メフメト2世は降伏・開城を呼びかけ、安全な退去とモレアス専制公領の支配権を約束した。 コンスタンティノス11世はこれを拒絶し、包囲戦は続行された。またオスマン陣営内でも和平派と主戦派が激論を戦わせる場面もあったようであるが、最終的には後者が勝り、メフメト2世は総攻撃を決定した。 西欧からの来援は、結局なかった。最も近い国の一つハンガリー王国は消極的な干渉を試みたようであるが、オスマン側の包囲を解かせるには至らなかった。 防衛側も、最後を察知していた。5月28日の夜、コンスタンティノス11世は宮殿で大臣や将兵を前に最後の演説を行った。将兵たちは涙ながらに「キリストのために死ぬのだ!」と叫び、皆お互いに別れを告げあった。 その後、ハギア・ソフィア大聖堂で聖体礼儀が行なわれ、皇帝コンスタンティノス11世以下将官、市民など多くの人々が神に最後の祈りを捧げた。聖体礼儀が終わると、コンスタンティノス11世は臣下の一人一人に自らの不徳を詫び、許しを乞うた。その場にいたもので涙を流さない者はいなかったと、偽スフランゼスの『年代記』は伝えている。 https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=55586