春秋戦国時代で秦が天下を掌握することがほぼ確定したのっていつ頃だと思いますか。

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ご回答ありがとうございます。 そうしますと、斉が強かったのは貿易が理由でしょうか。 それについては一つ経済圏をもつくらいには影響力はあったほどですか。そこまででないですか。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆様ご回答ありがとうございました。 皆さんが知りたいことを教えて下さってbaは迷いましたが斉が魚を売ってたのがなんか好きだったのでこの方にbaは差し上げます。

お礼日時:10/27 20:12

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確定ならば、長平の戦いです。 長平で秦は勝ち、趙兵を大量に生き埋めにしたことでしょうね。 前述の方々も言っている通り、 ・孝公時代と商鞅の変法によって国がまとまった。 ・燕の内乱によって一時燕は斉の保護国となった。 ・白起により楚、韓、魏は国土の半分くらいを削られた。 ・楽毅のいる燕国率いる5国の軍で、当時西の大国であった斉が滅亡寸前までいった。 ・燕は恵王の時代、楽毅を解任し亡命させ、斉の反攻をさせてしまった。 これから残ったのは独力で秦の攻撃に耐えうる国は趙だけです。 その趙が長平で大敗したのですから、これで秦の中華統一は決まったようなものです。

ご回答ありがとうございました。 趙が対秦で目立ってるのは実際他の国が白起に対抗出来たのが廉ぱくらいだったからなのですか。 後の時代、領土を少し取った李牧も凄いですね。

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既に回答がある通り、商鞅の改革で秦が国力を伸ばした後で斉が東帝、秦が西帝を称して天下を二分する勢いだった時期があります。しかし斉は燕の楽毅が率いる五カ国連合軍に滅亡寸前まで追い込まれて脱落しました。ちなみに漢文でよく見る「隗より始めよ」の故事はこの時の燕の昭王の話です。郭隗の進言に従った結果楽毅を含む多数の人材を得て強大化することができたわけです。しかし昭王が死ぬと瀕死状態だった斉の離間策で楽毅が解任されて燕もグダグダになります。 天下統一レースから斉が脱落した後で趙が武霊王によって勃興するのは確かにそうなんですが、完璧の故事などに見られるように秦に対して外交面・軍事面で抵抗するのが精一杯で天下統一は無理と思われます。

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>しょうおうっていう人の政治改革 商鞅の変法によって、秦は弱小国から強国へと生まれ変わった ということは、教科書レベルでも指摘されていることです。 https://kotobank.jp/word/%E5%95%86%E9%9E%85 しかし、商鞅の変法は秦の天下統一の出発点でしかありません。 他の国でも、同様の改革を断行していれば、どうなったか分かりません。 実際に、商鞅より少し前に、呉起が楚で改革を実行しましたが、 最終的に次世代に受け継がれませんでした。 https://kotobank.jp/word/%E5%91%89%E8%B5%B7 商鞅も呉起も、国内の反対勢力に嫌われ、 最終的に粛清されています。 しかし、秦と楚ではその後の展開が大きく異なりました。 秦は商鞅の改革を続けていったのですが、 楚は元の体制に戻ってしまいました。 改革(=変法)は一時的なものではあまり意味がありません。 君主が代替わりしようが、継続しなければ成果は出ません。 商鞅は孝公に気に入られて、国政を任されましたが、 次の恵文王に嫌われて、殺されてしまいました。 しかし、恵文王は改革だけは受け継ぎました。 ここが大きな分岐点になったと言えるでしょう。 >秦が天下を掌握することがほぼ確定 これは正解がないテーマです。 ですから、推測しかできません。 1.燕の楽毅による斉の攻略(前3世紀初) 戦国後期の二大勢力の1つが東方の斉でした。 一時は、秦が西帝、斉が東帝を称したくらい、 戦国七雄の中でも、この二か国が有力でした。 燕は弱小国で、国内の混乱に乗じて斉に滅ぼされかけました。 燕の昭王は楽毅という名将を手に入れ、斉に復讐戦を挑みました。 その結果、強国斉が滅亡寸前にまで追い込まれました。 https://kotobank.jp/word/%E6%A5%BD%E6%AF%85 斉はかろうじて滅亡を食い止めましたが、 天下統一レースから脱落した、と言ってよいくらいの出来事でした。 2.長平の戦い(前260) 秦が趙を破った戦いです。 趙は胡服騎射を取り入れ、強力な騎馬戦力を有する軍事大国でした。 七雄の中では、秦・斉・楚が大国で、韓・魏・燕は弱小国 という感じの力関係になっていました。 趙は国力はそれほどでもありませんでしたが、 軍事力だけは秦に対抗できる国でした。 秦は名将・白起を擁して、長平で趙軍を降伏させ、 約40万の降兵を穴埋めにして皆殺しにしたと記録されています。 https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E8%B5%B7 40万が実数なのかは不明ですが、趙の軍隊が壊滅したのは間違い ありません。 戦国時代は徴兵制の時代でしたので、趙は青年男性人口が 壊滅的なダメージを受けたはずです。 始皇帝が趙を滅ぼしたのが、約40年後のことになります。 おそらく、長平の戦いのダメージから立ち直ることは できなかったのでしょう。 それでも、趙は秦にとって非常に厄介な敵であり続けました。

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