ID非公開

2020/10/26 23:01

88回答

仏教では自分というものが存在するとか、輪廻は無いとか、自ら神になったなどの主張は邪見ですか?

仏教では自分というものが存在するとか、輪廻は無いとか、自ら神になったなどの主張は邪見ですか?

宗教80閲覧

ベストアンサー

2

その場合の「自分」というのが絶えず移り変わる無常な現象としての「自分」のことなら邪見ではありません。それは「世俗諦 (lokiya sacca)」 、つまり世間における真実と呼ばれます。 そうではなく「自分」というのが、個々の人間における実体、本性、魂、仏教が「我(atta)」と呼ぶものを指しているのであれば、そうしたものがあるという見方は「我見 (ahaṅkāra)」 または「有身見 (sakkāyadiṭṭhi)」と呼ばれ、邪見となります。 「輪廻が有る」というのは十の正見(十事正見)に含まれていますから、「輪廻は無い」という見方が「断見」と呼ばれる典型的な邪見であるのは、パーリ仏典中部の聖道経において明言されています。 自ら神になったと主張するのは邪見ではなく、嘘、妄語ですから、戒律違反です。 妄語の中でも、神になった、仏になった、あるいは「悟った」といった宗教的な妄語は大妄語と呼ばれ、出家者なら教団追放に相当する非常に重い罪になります。(ただし、病や瞑想体験の誤った解釈などから本気でそう思っている場合は妄語にはなりません。) ちなみに、我見や輪廻否定は16種の「疑 (vicikicchā)」のひとつであり、存在を輪廻に結びつける「結 (saṃyojana)」と呼ばれる根本的な煩悩のひとつですから、これを乗り越えることなしに解脱はあり得ないというのが仏教の教理です。 仏教の修行階梯である七清浄の四段階目にあたる「度疑清浄」というのは、ヴィパッサナー瞑想によってこうした疑を乗り越えるプロセスのことを言います。(「度」には「乗り越える」という意味があります。) 逆に言うと、度疑清浄に達していない人が邪見に囚われているのは当然の話なのであって、それによって罰を受けるということはありません。 ただそのような見解が本人を苦しめ、不利益をもたらしていることに気づけないというだけのことです。

2人がナイス!しています

ThanksImg質問者からのお礼コメント

とてもわかりやすかったです。ありがとうございました。 回答をくださった皆様ありがとうございました。

お礼日時:10/27 18:37

その他の回答(7件)

0

仏教とは悟りを開くと自己の本性が人間ではないと悟り、生死を超越した仏として目覚める教えです。 輪廻を信じているのは一部の狂信的な信者だけでしょう。 仏教は仏として目覚める教えですから神になることはありません。

0

究極的には 全てが空であることさえ解っていれば 他は些末なことなので、 その程度の細かい設定の解釈違いは ブッダなら許容範囲内と見做して お目こぼししてくれるはずです。

0

諸行無常・諸法無我やから輪廻転生はないで 無我は答えやからね で、神って何?

0

邪見じゃないです。

0

それは邪見ではなく真実ではないかと思えるのであれば、自ら探究してみてはどうでしょうか。 そういうことを説いている人の指導を受けるとか、自ら考えて修行するとかして。 釈迦も最初は、既存の思想宗教をいろいろと学び、指導者の下で修行し、最後は自分で工夫して悟ったとされます。