御存知の様に山本五十六は「負けるに決まった戦争をする馬鹿がいるか!」と対米戦争に強く反対していましたが、開戦気運が強くなってきた時、海軍大臣の嶋田繁太郎への手紙にこう書きました。
「、、、 大勢に押されて立ち上がらざるを得ずとすれば、艦隊担当者としては尋常一様の作戦にては見込み立たず、結局、桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せ行うのやむを得ざる羽目に追い込まれる次第、、、」
つまりまともな作戦ではとても間に合わんぞ、と言う事ですね。
日本海軍はアメリカと戦争になった場合を考えて艦隊決戦を想定し、いわゆる「漸減作戦」を構築し、長年にわたって月月火水木金金の猛訓練を行っていました。
漸減作戦の基本的かつ決定的な問題は、アメリカ艦隊がいつ、どんな艦隊編成で、どこに来攻して来るか分からない事です。それは100%アメリカのチョイスで、日本側の期待通りに出て来る保証はまったく無い。
広い太平洋で日本が艦隊を小出しにして米艦隊を求めてあちこち索敵をやっていたら、優勢な米艦隊に捕まって逆に漸減されてしまう恐れがある、、、
その為に山本五十六は、相手の出方を待つのではなく、当時質、量とも世界トップクラスに成長していた機動部隊をフルに使ってこちらから出て行って相手の本拠を叩こう、と。
それが真珠湾攻撃であり、見事に成功。仮に漸減作戦が成功したとしても何週間、何ヵ月かかったか分からない戦果を二時間で達成、こちらの被害は軽微、、、
その為に日本の主目標だった西太平洋•東南アジア侵攻作戦は予想以上にスムーズに完了しました。真珠湾攻撃は失敗だった言いたがる人がいますが、日本の戦争目的、そして海軍に与えられた緒戦の大命題を御存知ない意見です。
山本五十六は直属の上司である永野修身軍令部総長に対し、どうしてもやれと言われたら聨合艦隊としてはこんな作戦を、と説明したあと、こう言いました。
「次に一大将として第三者の立場として申せば、日米戦争は長期戦となること明らかであります。日本が有利なる戦いを続ける限り米国は戦いをやめざるべきをもって戦争は数年に亘り、資材を蕩尽せられ、艦船・兵器は傷つき、補充は大困難を来たし、ついに拮抗し得ざるに至るべし。のみならず国民生活は非常に窮乏を来たし、、、かかる成算なき戦争は為すべきではないと思います」
「成算なき戦争」、勝てるわけのない戦争、、、
それにも拘わらず、耄碌が始っていた永野軍令部総長も東條に迎合して対米戦争を促進しました。
いよいよ日本が戦争を決めた時、山本は海軍兵学校同期の親友・堀悌吉中将に「個人としての意見と正確に正反対の決意を固め、其の方向に一途邁進の外なき現在の立場は誠に変なもの也、之も命(=運命)と言ふものか」と書いています。
自分があれほど反対した戦争の先鞭を切らされた山本は複雑で悲壮な気持ちだったでしょうね。しかし彼とて天皇の兵士、国がやると決めた以上は全力を尽くそう、と。
山本が命をかけて反対した対米戦争を始めておいて、その結果を山本のせいにするのはどうかと思います。