西国の武士は弱かったですか?西軍は弱かったのですか? 弱兵だったのでしょうか?
西国の武士は弱かったですか?西軍は弱かったのですか? 弱兵だったのでしょうか? 関ケ原の戦いで西軍は大兵力ながら僅か1日で敗れています。この時のメンバーとほぼ同じで戦っているのが下記の合戦なのですが少数の敵に散々に敗れています。 ●幸州山城の戦い 敵「明軍」約4千人 VS 宇喜多、石田、大谷、小西など約3万 総大将:宇喜多秀家 先陣:小西行長 中陣:石田、大谷、増田、加藤(光泰)、前野、 後陣:毛利輝元や吉川広家 さらに参陣しませんでしたが敗戦後に撤退戦の時に出撃してきて軍を収容した小早川隆景や立花宗茂軍が後方に居たようです。(この時も小早川軍は上手く動かず、立花軍は来ていません・・・。) ほぼ西軍のメンバーですが、 4千の敵に意気揚々と3万で当たり、何度も突撃したようですが敗れて最後には 総大将の宇喜多秀家から、吉川広家、石田三成、前野長康などまで負傷し散々の形で撤退したとされます。7倍以上の差があったにも関わらず負けてしまっています・・・。 もしかして西軍の兵は戦慣れしていないなど何か理由があって弱かったのでしょうか? 武士の本場は東国とも見る見方があると思いますが、徳川家康など関東を支配した武士たちに比べれば西国の武士は弱かったのではないでしょうか? いくら石田三成が戦略に長けていてもこれでは勝てなかったのではないでしょうか? ご意見をお聞かせください。
なぜ西軍の武将たちは「幸州山城の戦い」で寡兵の敵を相手に敗れてしまったのでしょうか? こちらの理由もお教えください。
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ベストアンサー
関が原の東軍=東国の兵ではありませんが。 東国・西国という色分けには当たらないと思います。 また短時間で終わった関が原の戦いは、勝ち馬に乗りたい武将たちのかけ引きのオセロゲームのような結果が伴っていると思います。 「幸州山城の戦い」は、隆景や宗茂をも破った朝鮮の名将が相手で敵の士気が高かったことと、天然の要害だった幸州山城を大軍を頼みに力攻めにした結果、犠牲者が多くなったのではないでしょうか。朝鮮援軍に退路を断たれる恐れが無ければ、犠牲を払いながらも陥落させていたかもしれません。
>隆景や宗茂をも破った朝鮮の名将 隆景、宗茂は西国の武将ですね。 あと隆景や宗茂はこの権慄(朝鮮の武将)に敗れていたのですか?
質問者からのお礼コメント
西国の兵士がもう少し強ければと思います。 いくら西軍を起こすほどに戦術に優れていた石田三成でも弱兵を率いては勝てないのが道理です。
お礼日時:1/17 17:12