南樺太の石油について
南樺太の石油について 日本はWW2において、石油を輸入できなくなり、東南アジアに進出したと歴史で習ったと思うのですが、先程樺太について調べてみると、石油をはじめ、資源に恵まれた土地のようです。南樺太はソ連が進軍してくるまで日本領でしたので、ここでとれた石油を回せば日本に必要な石油を調達できたのではないですか?また満州はどうでしょうか? 戦前において石油の存在は知られていなかったのでしょうか?
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>日本はWW2において、石油を輸入できなくなり、東南アジアに進出した のではなくて、米国との戦争を避けつつ東南アジアに進出しようとして、『日本の南進を武力で邪魔したら世界戦争に突入する事になるぞ』と米国をビビらせておこう、と思って三国同盟を結んだら、米国は中々ビビらず、それでも南進の準備を進めていたら、とうとう石油を止められて、南進どころか日中戦争の継続すら困難になり、一か八かの対米戦に踏み切った、その為には東南アジアの石油は不可欠になった、って話です。 日本の南進準備が米国の石油禁輸の引き金ですから、『石油を輸入できなくなり、東南アジアに進出した』と言ったら、そりゃヨロシクないです。1940年8月から唱えられた大東亜共栄圏と言うスローガンは何だ?、って事になっちゃいます。(御興味があれば、石油を止められる前から、日本政府は内部資料だけでなく、政府広報誌などですら、公然と”東南アジア武力進出”の意思を見せていた、と言った資料のありかぐらいは、お教えします。) が、それはさておき、日本が石油を見つけかつその権益をもっていたのはソ連領の北樺太です。1925年にソ連と国交を結んだ時に、ソ連に北樺太での日本の石油権益を認めさせました。が、日本全体の需要からすると微々たるものです。 満州については『石油がありそうな感じ』ぐらいは気付いて試掘もしたのですが、結局当時の技術的な制約から、発見に至らずです。 根拠資料として、↓からリンクのある独立行政法人『石油天然ガス・金属鉱物資源機構』(略称JOGMEC)の『石油・天然ガスレビュー』 2006年1月号所収の『戦争と石油 (1) ~太平洋戦争編~』から、やや長くなりますが、引用します。 https://oilgas-info.jogmec.go.jp/review_reports/1006199/1006204.html ~~ 日本は当時、唯一とも言える海外石 油権益を樺太に保有していた。北樺太 石油権益である。 (略) 大正6年(1917)に起きたロシア革命 の後の大正8年(1919)、久原鉱業を主 体とする日本の石油開発コンソーシア ム「北辰会」(久原、三菱、大倉、日 石、宝田、後に三井物産、鈴木商店が 参加)は海軍の支援の下、日露(イワ ン・スタヘーフ商会)合弁でオハ地域 の試掘を開始した。 (略) 大正14年(1925)、日ソ基本条約が北 京で締結され、北樺太の既開発油田 (オハ、エハビ、ピリンツ、ヌトウオ、 チャイオ、ヌイウオ、ウイクレッグ、 カンタグリー)の採掘権および東海岸 での試掘権(大正14年より11年間:利 権契約)が認められた。 政府は財界に呼びかけ、大正15年 (1926)、北樺太石油株式会社(資本金 1,000万円、社長:舞鶴要港司令官中里 重次海軍中将)を設立し、北辰会の権 益(暫定的に北サガレン石油企業組合 を設立し継承)を引き渡した。 同社の原油生産量は、大正15年末時 点で1,240バレル/日、生産量のピーク は昭和8年度の3,860バレル/日、日本 への持込量はソ連国営石油会社からの 購入分を含め同年6,260バレル/日であ った。同年の国内原油生産量が3,890バ レル/日であるから、同社の生産量は ほぼこれに等しく、持ち込み量は同年 の原油輸入量21,030バレル/日の30パ ーセント弱に達していた。 しかし、昭和11年11月の日独伊防共 協定(当初日独、翌年伊参加)の調印、 昭和13年の張鼓峰(中国東北部豆満江 下流、満州・朝鮮・ソ連の国境地域) での国境紛争戦闘、昭和14年5月の日ソ 両軍の師団単位による本格的軍事衝突 となったノモンハン(中国東北部北西 地域、ハルハ河流域)事件等により、 ソ連側の圧力(現地労働者の雇用難、 パイプラインの使用拒否、エハビ・カ タングリ地域での掘削禁止等)が増加 し、原油生産量は徐々に低下していっ た(表7参照)。重要物資の輸出相手国 と衝突し、輸入減、禁輸を受けると言 う日本(軍)の性癖がこの時点で既に 現れている。 ~~ (同論文P52) 輸入が減少する前の昭和8年時点でも原油輸入量の3割だったのだから、足りる訳がないのは想像頂けると思いますが、同論文のP57には、海軍の対米強硬派が『蘭印(現インドネシア)の石油を手に入れれば、対米戦を三年間継続出来る』と言う計算を、無理矢理に作った表が載っていますが、民需240万キロリットル/年を含む石油消費量の見込みが550~600万キロリットルであるのに対し、オハ(北樺太)及びソ連からの輸入は5~10万キロリットルとなっています。要するに、全く結論に関係ありません。 満州での石油試掘については、↑の論文のP52~53に触れられていますが、その結論に当たる部分を引用すると… ~~ 結果的には、当時、日本の探鉱技術は、最新技術である反射式探鉱機(地震探鉱機器)を日本鉱業が導入していたものの、満州の探鉱では日本石油が技術支援を行ない、同方式は使用されなかったこと、また、最高水準の技術を保有していた米国のコントラクターは、満州での石油探鉱が国家機密であったため投入することが出来なかったこと等による技術的劣勢が、満州での石油発見に結び付かなかったと言える。 ~~ (同論文P53) 尤も、当時の最新技術を使っていたら《必ず》見つけていたはず、って事にはならないでしょうが…
質問者からのお礼コメント
ありがとうございます
お礼日時:1/9 21:45