邪馬台国 畿内説vs. 九州説 その2

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

10行以内…難しいですね。 多すぎず、少なすぎず。でこの方をベストアンサーと致しました。 個人的には墓の状況から祇園山がイメージに合うかなぁ…ってとこです。 ありがとうございました。

お礼日時:1/17 17:53

その他の回答(5件)

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私は邪馬台国(ヤマトコク)と呼ばれていた、その国は、九州の吉野ヶ里だと思います。 大きな墓があります。儀式をしていたと思われる高い建物や遺跡があります。 邪馬台国はだんだん繁栄し、奈良の方に大名行列のように移動して、さらに大きな国を作ったと思います。

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「邪馬台国連合」が都を置いていたのは「九州嶋北岸」。 「平原遺跡1号墳」。

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大分県・宇佐神宮境内の亀山山頂 ・魏志倭人伝「倭=一周5千里=九州島」「女王国から東に渡海で別の領域」 等から、邪馬台国は北部九州の東岸にあるのは明らか ・邪馬台=耶馬渓・山門、中つ国=中津、みやこ=京都郡、台与=豊の国、 大分周辺からの献上米=中国米などから、邪馬台国=中津・宇佐周辺 ・記紀神話の解読から天照大神=卑弥呼なのは明らか ・道鏡事件で皇位継承を神託したのは皇祖神本柱が伊勢ではなく宇佐にあった証 伊勢はヤマト東遷後、宇佐から依代を遷したもの。宇佐と伊勢は地勢が瓜二つ ・宇佐神宮のヒメ大神=ヒミコ=天照大神。百体神社=百人の殉死者 ・魏の薄葬令に則れば、王墓は山頂を整備した質素なものしか許されない 亀山は様式も径百歩にも合致。三国志で冢は古墳と別物だと認識されている 10行以内はしんどいです...