徳川吉宗と、実は恋仲だったといわれる綱吉の養女(?)姪(?)がいたと思うのですが、誰でしたっけ?

日本史 | 歴史21閲覧

ベストアンサー

0

その他の回答(1件)

1

浄岸院(竹姫) 1705-1772 5代将軍徳川綱吉の側室であった大典侍局(寿光院/権大納言清閑寺熈定の娘)は子に恵まれなかったため、姪の竹姫を自身の養女とすることを望んだ。 綱吉は唯一成人した子どもの鶴姫(紀州徳川綱教正室)が亡くなったばかりであったこともあって異例ながらこれを赦し、竹姫は大典侍局と綱吉の養女として江戸城で養育された。 最初会津藩主松平正容の嫡子久千代と婚約するもすぐに死去し、さらに有栖川宮正仁親王と婚約したが、1716年に輿入れ直前に親王は亡くなってしまった。 まもなく8代将軍徳川吉宗の代となると、今度は正室を亡くしていた吉宗が後妻にしようとした。 しかし、系図上大叔母である竹姫との縁組は儒教的にありえない所業であったために大奥を差配する6代家宣の正室天英院らが大反対して縁談は中止となった。 二度の婚約者の死と、すでに竹姫と吉宗は男女関係だったという噂もあり、以降竹姫の縁談は難航を極めたという。 1629年になって、近衛家経由で薩摩島津氏に縁談が持ち込まれ、島津氏は渋々これを受けれたので、竹姫は薩摩藩主島津継豊の正室となった。 すでに男子のあった継豊はその男子(宗信)が島津を継ぐのを承諾させた上での結婚であった上に、この婚姻前後に様々な利権や特権を得た。 竹姫は継豊との間に菊姫(黒田重政正室)を儲けたが、晩年は夫が薩摩に隠居したのに対し、江戸に残って別居したという。 竹姫は徳川家(幕府)と島津氏の橋渡しに尽力し、宗信と尾張徳川家の縁談(双方が若死したため実現せず)をまとめたり、義理の孫に当たる島津重豪の養育にかかわり、重豪と一橋徳川家の姫との縁談を実現させたりした。 竹姫に始まる徳川家と島津氏の繋がりは、重豪の娘茂姫と11代将軍徳川家斉(婚約当初は一橋家世子)との縁組実現や、13代将軍徳川家定と天璋院篤姫との縁組実現に繋がっていったとされる。

1人がナイス!しています