太平洋戦争はもう少し早く終わらせる(降伏)ことはできなかったのでしょうか?

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無理だったと思う。日本は清にもロシア帝国にも勝った。無謀だと思った戦いに勝ってきた。敗勢を受け入れる事が、日本の軍人には出来なかった。玉砕とか切腹みたいな思想・文化があるんだから、原爆が落とされるまで降伏出来るはずがなかった。 未来人の自分からしたら、ガダルカナル撤退の時点で諦めるべきだったと思う。

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《当時》の日本には無理でした。 軍部は、降伏自体が受け入れられなかったからです。 『生きて虜囚の辱を受けず』で有名な戦陣訓は、陸軍のものですが、『捕虜になるのは恥』と言う考え方は広く共有されていました。真珠湾攻撃の際に二人乗りの特殊潜航艇五隻が未帰還となりましたが、その搭乗員9名が九軍神として讃えられたのは、1名が意識不明の状態で海岸に打ち上げられ捕虜となったのを隠したからです。 そう言う教育をして、玉砕した部隊を軍神と褒め称えて来た大本営にとって、軍がまるごと進んで(少なくとも一旦は)捕虜になる降伏は、到底受けいれられませんでした。『そんな事、今更言えるか!』です。 大本営陸軍参謀本部第二十班(通称“戦争指導班”)の業務日誌である機密戦争日誌の1944年6月24日分に、 ~~ 海軍のあ号作戦に関し陸軍と協議の上中止するに決す。 即ち帝国は「サイパン」島を放棄することとなれり。 来月上旬中には「サイパン」守備隊は玉碎すべし。 最早希望ある戦争指導は遂行し得ず、残るは一億玉碎に依る敵の戦意喪失を俟つあるのみ ~~ とあります。 国立公文書館アジア歴史資料センター(略称アジ歴)の↓にレファレンスコードC12120325100を入力してリンクを辿って出て来る資料の全47画像中の41枚目です。 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/reference (以下のアルファベット1文字+数字11桁は全てアジ歴レファレンスコードで、同様に読めます。) これは、サイパン島確保を諦めた時点の記載ですが、日本本土を直接空爆されない為にはサイパン島近辺を確保する事が極めて重要でした。その放棄を決めたのだから、「もはや希望ある戦争指導はしようがない」という認識になっている訳ですが、その後の「一億玉碎に依る敵の戦意喪失を俟つあるのみ」とは、仮に日本人全員が死ぬ事になるとしても、それは厭わず「敵の戦意喪失」つまり米国が(日本がそんなに抵抗するなら)『ここらで戦争をやめておこうか…」という気になるのを待つしかない、って意味です。 降伏なら自分達の意思で出来ますが、降伏以外の終戦の為には、敵に『もう戦争はやめておくかね』と思わせるしかありませんから… 一億玉碎と言う表現に象徴される様な”膨大な被害”の可能性よりも、”降伏を避ける”方が軍部にとっては大切だった、って事です。 こうした考え方が、公式に確定したのが、1944年8月19日御前会議決定『戦争指導大綱(C12120198500)で… ~~ 方針 一、帝国は現有戦力及び本年末頃迄に戦力化し得る国力を徹底的に結集して敵を撃破し、以って其の継戦企図を破砕す 二、「帝国は前項企図の成否及び国際情勢の如何に拘わらず、一億鉄石の団結の下、必勝を確信し、皇土を護持して飽く迄戦争の完遂を期す ~~ となっていました。 (1)では(敵の)継戦企図を破砕する、つまり、『もうここら辺で戦争は止めとくか』と敵に思わせる、(2)では、そう言う企図(=もくろみ)が成功するかどうか、国際情勢の如何=ドイツが降伏するかしないか、に拘らず、飽く迄戦争の完遂=最後迄戦い抜く事を決意する、つまり、降伏ではなく講和の形で戦争を終わせる為に、うまく行こうが行くまいがとにかく最後迄戦う、と言う意味の御前会議決定でした。 一億玉砕と言う表現は使っていませんが、敵に『もうここら辺で戦争は止めとくか』と思わせる事が出来なくても戦い続ける、って事は、『一億玉砕しても、自分達からは戦争は止めない(降伏はしない)』って事に他なりません。 1945年6月8日御前会議決定『今後採るべき戦争指導の基本大綱』(C12120199700)では… ~~ 方針 七生盡忠の信念を源力とし地の利人の和を以て飽く迄戦争を完遂し以て国体を護持し皇土を保衛し征戦目的の達成を期す 要領 一、速やかに皇土戦場態勢を強化し皇軍の主戦力を之に集中す (以下略) ~~ と言う、精神論と本土決戦準備になっていました。 同じ御前会議で報告された『世界情勢判断』(C12120236400)は、ソ連について… ~~ 何時にても敵対関係に入り得る外交体制を整え居ると共に東「ソ」の兵備を強化しつつあるを以て益々政略的圧迫を加重し大東亜戦況帝国に甚だしく不利にして自己の犠牲少なしと判断する場合に於ては対日武力発動に依る野望達成に出づる算大なり。然れども米の東亜進出に対する牽制的意味合よりして比較的早期に武力行使に出づることなしとせざるべし。 其の時期は敵の本土又は中北支方面上陸の時期、北満の作戦的気象条件及「ソ」兵力集中の状況等より見て本年夏秋の候以降特に警戒を要すべし ~~ と(直ぐにではないにせよ)ソ連が参戦を狙っているであろう事は充分認識していました。にも拘わらず、ソ連仲介による”和平”を期待したのも、軍部は(降伏ではなく)”和平”と言う形式でないと終戦を受け入れなかったからです。 大日本帝国憲法では、陸海軍は天皇の指揮命令下にあったので、仮に内閣が降伏しようと思ったとしても、大本営がOKしなければ戦争は終わらせられませんでした。 ポツダム宣言の受諾を決めた際に、昭和天皇の”御聖断”があったのは良く知られています。 既に御紹介した1945年6月8日御前会議決定「今後採るべき戦争指導の基本大綱」は、戦争の目的が『国体護持』と『皇土保衛』になっていました。これについて、鈴木貫太郎首相(当時)は、戦後に… 『このことは非常に含みのあることであって、余としては、戦争終末への努力の足がかりが出来たやうに思はれたのである』 と述べています。(『終戦の表情(鈴木貫太郎述)』労働文化社・1946年・P26) が、あくまで鈴木首相本人にとって”戦争終末への努力の足がかり”が出来た、と言うだけでした。 ソ連の参戦で、ソ連仲介の和平の願望が潰えた直後の8月9日夜から10日に掛けての御前会議の前に陸軍省軍務課が書いた機密戦争日誌には… ~~ 「ソ」の参戦に伴う戦争指導大綱(案) 帝国は「ソ」の参戦に拘わらず依然戦争を継続して大東亜戦争の目的完遂に邁進す ~~ と書いてあります。(C12120362200の3/6) 広島に原爆が落とされ、ソ連も参戦してもまだ陸軍は戦争を継続するつもりでした。 この御前会議で鈴木首相は昭和天皇に”御聖断”を求めて、やっと”国体の護持”を条件としてポツダム宣言を受諾する事が決まりました。 それは既に挙げた機密戦争日誌の8月10日分(C12120362300の1/10)に… ~~ 昨夜十一時より本朝三時に亘り御前会議開催せられ皇室の保全を条件として『ポツダム宣言内容の大部を受諾することに御聖断せられたり ~~ とある通りです。 降伏だけは絶対に避けたい軍部を抑えるには、陸海軍を統率する立場にある天皇の”御聖断”が必要だった、って事です。 ですので、太平洋戦争末期の日本(特に大本営)は、正確に言えば『少しでもマシな講和条件にする』為に戦争を続けたのではありません。降伏だけは嫌だ、だから、米国に戦争を続ける気がなくなるぐらいのダメージを与えるしかない、その為には一億玉砕もやむ無し、でした。 尚、サイパン失陥は『希望が消えた』時点です。開戦前の日本の”勝つ”(少なくとも”負けない”)為のシナリオは、『英国を屈服させれば米国も戦争を続ける意味がなくなるだろう』で、英国を屈服させる主役はドイツ、つまり、ドイツ頼みで戦争を始めました。米国を実力で講和に追い込む力は枢軸国側にはない、と考えていた、とも言えます。 が、ドイツが対ソ戦の泥沼に嵌まり、そのシナリオがなりたたなくなった事は、さすがに1943年2月の時点で日本の指導者達も認識しました。 それ以降は、『こうして戦争を終わらせる』と言うシナリオが主観的にも事実上存在しないまま、(開戦前には無理だと思っていたのに)『米国の戦意を実力で喪失させる』為に、本土決戦寸前まで行きました。 そこら辺りに御興味があれば、↓からリンクのある防衛省主催戦争史研究国際フォーラム(第一回)の報告書の一つ『日本の戦争計画におけるイギリス要因 : 「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の消滅まで』(赤木完爾・2003年3月)をお読み下さい。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1283043 赤木完爾は、そもそも英国を屈服させれば米国も戦争を続ける気がなくなるだろう、なんてものが『期待的幻想』であって、第一次世界大戦を学ばなかった日本が世界戦争を日清・日露戦争と同じ様なセンスで始めてしまったからだ、と言っています。その意味では、最初から戦争しちゃいけないぐらい『甘ちゃん』だった、って事でしょうね。 『こっちが講和したいのに、降伏しか認めない連合国が悪い』なんて言う程の、お花畑的発想はありませんでしたけどね… (余談) 米国は、ポツダム宣言だけでなく、その前に、ドイツ降伏と同時に日本に降伏勧告しています。(↓) https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/008shoshi.html 言う迄もありませんが、原爆投下迄は降伏を認めない、ってな方針は米国には存在していませんでした。 戦争を継続する、と言う事は米兵にも犠牲は出る、って事です。仮に日本が無条件降伏を受け入れたら、米国政府はどうやって、米国民に『降伏をして来た相手と戦争を続ける』正当化をするのでしょうか…

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1945.7.26にポツダム宣言がでて降伏勧告を受けているので、この条件を飲めば降伏できる。 ただ問題は国民と兵士の安全は保証されるが、戦争犯罪者は保証されないので、天皇が戦争犯罪者とされる可能性がある。だからすぐには受諾できない。

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当時の政府の指導体制、軍上層部では無理でしょう 可能性があるなら? 昭和天皇が 何らかの病気等で 崩御していたなら? 国体護持 という大義名分が無くなり、 降伏しやすかったかもしれません

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出来ません。史実が最短ルートです。 日本側は「日本国内の政体に連合国が一切介入しないままの講和」ならずいぶん早い時期から望んではいましたが、それは国家総力戦やってる国の発想としては頭おかしい域の「虫の良い要求」にすぎません。それをやるならイタリアのように自国でクーデターを起こし戦争継続派を自ら捕縛し処罰した上で新政府が連合国と交渉するしかないのであり、戦争を始めたときの政体のまんまで都合よく戦争だけ終わらせようなんていう主張を「日本は講和を求めていた」などと強弁するようでは……。 マリアナ沖海戦の敗北で日本は戦略持久の可能性すら消滅したため、これ以後の日本の戦いは「連合国が提示する講和条件を値切るための戦い」になります。海軍はレイテ沖海戦で米侵攻軍を壊滅させることによって条件を値切れるとして「決戦」を呼号し、大失敗に終わりました。そして陸軍は本土決戦で米侵攻軍に大被害を与えることによって条件を値切れるとして「決戦」を呼号しており、値切り交渉の仲介を頼むつもりだったソ連が中立でいる間はこのプランに固執していました。この「ソ連の中立」が45年8月9日に失われたことで、陸軍も戦争継続の意思を失いポツダム宣言受諾に同意したんです。 言い換えると当時の日本にとって「学徒出陣が始まったから」とか「本土に空襲を受けたから」とかは戦争を何が何でもやめる理由にはならなかったんです。そういう国だからこそ日本はアメリカと開戦する道を選んでしまい、そしてここまで戦いを長引かせることになったんです。仮にソ連参戦がなければ間違いなく日本は本土決戦に突入していたでしょう。

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