明智光秀が信長を倒した後なんでみんな光秀に協力しなかったんですかね・・・?
明智光秀が信長を倒した後なんでみんな光秀に協力しなかったんですかね・・・? つまりは人望がなかったんですか? 秀吉はあっさり味方が増えたのに。
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信長と信忠を殺した理由が毛利氏に出した光秀書状だと、父子悪逆で天下の妨げ、であるからとしています。ただし、どのように悪逆なのか、という点では光秀は全く言及していません。 で、信長の政治がそんなに酷かったのか、というとむしろ逆。明治時代に愛知を訪れた勝海舟をして「民衆は信長の統治を評価していた」とあるほど。武田を滅ぼした際の処理でも、勝頼がやっていた重税はすぐに廃止。また、柴田勝家に越前を与えた際には「年貢や賦役を新たに重く課す際には、必ず俺に相談しろ」なんていう掟まで出しています。 虐殺などで暴君と思われがちな信長ですが、統治はかなり良好でした。敵を容赦なく滅ぼした、なんて言われがちですが、柴田勝家や松永久秀を見てもわかるように、かなり寛大な大名支配もしています。 つまり、信長の統治や支配にみんなさほどの不満は抱いてなかったんです。信長のあの性格ですから、多少は不満はあっても、まさか反逆するほどではなかったんです。 それと、光秀の計画があまりに脆弱でした。 光秀があちこちに出した書状では信長父子の悪逆を訴えて仲間になるよう誘うものばかりです。つまり、光秀は信長という悪魔さえ倒したら、みんな正義の味方である自分に味方するだろう、と楽観視していたむきがあります。 ところが、誰も味方しない。 そりゃそうです。仮にも主君を騙し討ちみたいにいきなり襲撃して殺害するような人物に、誰が味方するでしょうか? 日本人は、騙し討ちするような人物を最も嫌います。ましてや謀反なら尚更です。 実は、当時の神官である吉田兼見が、光秀の本能寺を「此度の謀反」と断じています。つまり、理由はどうあれ、光秀の行いは卑劣な謀反、と周りから見られていたんです。 その後も酷い。 光秀は信長の安土城に入ると、信長がため込んでいた名物や金銭を奪い尽くした上、それを自分の家臣や朝廷にばら撒いています。つまり、味方になりそうな大名たちには全然ばら撒いてないんです。 自分たちや朝廷にだけばら撒いて、味方になりそうな武将にはばら撒かない。これじゃ味方は増えませんよ。 結局、光秀は周りから謀反を起こした卑劣な武将と見做され、本能寺後の事後処理にも全て失敗したために自滅したんです。人望が無かったというより、本能寺を起こしたことで、人望を失ってしまった、と見るべきでしょうね。
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質問者からのお礼コメント
回答ありがとうございます!
お礼日時:1/19 12:20