正史三国志 陵墓の命名について 三国時代の皇帝の陵墓は以下の通りです
正史三国志 陵墓の命名について 三国時代の皇帝の陵墓は以下の通りです 劉備・・恵陵 曹操・・高陵 曹丕・・首陽陵 曹叡・・高平陵 孫権・・蔣陵 献帝・・禅陵 孫堅・・高陵(あるいは呉高陵) ①三国時代以前にも含め色んな名前がありますが、 命名規則などはあるのでしょうか ②献帝の禅陵はやはり禅譲したから禅陵なのでしょうか (ついでに献帝の諡も、歴史書の記述を見る限りやはり禅譲を意識したネーミングだと思いますがどう思いますでしょうか) 三国志明帝紀の裴注の参考資料を載せておきます。 獻帝傳曰。帝變服、率羣臣哭之、使使持節行司徒太常和洽弔祭、又使持節行大司空大司農崔林監護喪事。詔曰「蓋五帝之事尚矣、仲尼盛稱堯、舜巍巍蕩蕩之功者、以爲禪代乃大聖之懿事也。山陽公深識天祿永終之運、禪位文皇帝以順天命。先帝命公行漢正朔、郊天祀祖以天子之禮、言事不稱臣、此舜事堯之義也。昔放勛殂落、四海如喪考妣、遏密八音、明喪葬之禮同於王者也。今有司奏喪禮比諸侯王、此豈古之遺制而先帝之至意哉?今諡公漢孝獻皇帝。」使太尉具以一太牢告祠文帝廟、曰「叡聞夫禮也者、反本脩古、不忘厥初、是以先代之君、尊尊親親、咸有尚焉。今山陽公寢疾棄國、有司建言喪紀之禮視諸侯王。叡惟山陽公昔知天命永終於己、深觀曆數允在聖躬、傳祚禪位、尊我民主、斯乃陶唐懿德之事也。黃初受終、命公于國行漢正朔、郊天祀祖禮樂制度率乃漢舊、斯亦舜、禹明堂之義也。上考遂初、皇極攸建、允熙克讓、莫朗于茲。蓋子以繼志嗣訓爲孝、臣以配命欽述爲忠、故詩稱『匪棘其猶、聿追來孝』、書曰『前人受命、茲不忘大功』。叡敢不奉承徽典、以昭皇考之神靈。今追諡山陽公曰孝獻皇帝、冊贈璽紱。命司徒、司空持節弔祭護喪、光祿、大鴻臚爲副、將作大匠、復土將軍營成陵墓、及置百官羣吏、車旗服章喪葬禮儀、一如漢氏故事。喪葬所供羣官之費、皆仰大司農。立其後嗣爲山陽公、以通三統、永爲魏賓。」於是贈冊曰「嗚呼、昔皇天降戾于漢、俾逆臣董卓、播厥凶虐、焚滅京都、劫遷大駕。于時六合雲擾、姦雄熛起。帝自西京、徂唯求定、臻茲洛邑。疇咨聖賢、聿改乘轅、又遷許昌、武皇帝是依。歲在玄枵、皇師肇征、迄于鶉尾、十有八載、羣寇殲殄、九域咸乂。惟帝念功、祚茲魏國、大啓土宇。爰及文皇帝、齊聖廣淵、仁聲旁流、柔遠能邇、殊俗向義、乾精承祚、坤靈吐曜、稽極玉衡、允膺曆數、度于軌儀、克厭帝心。乃仰欽七政、俯察五典、弗采四嶽之謀、不俟師錫之舉、幽贊神明、承天禪位。祚(建)[逮]朕躬、統承洪業。蓋聞昔帝堯、元愷既舉、凶族未流、登舜百揆、然後百揆時序、內平外成、授位明堂、退終天祿、故能冠德百王、表功嵩嶽。自往迄今、彌歷七代、歲暨三千、而大運來復、庸命厎績、纂我民主、作建皇極。念重光、紹咸池、繼韶夏、超羣后之遐蹤、邈商、周之慚德、可謂高朗令終、昭明洪烈之懿盛者矣。非夫漢、魏與天地合德、與四時合信、動和民神、格于上下、其孰能至於此乎?朕惟孝獻享年不永、欽若顧命、考之典謨、恭述皇考先靈遺意、闡崇弘諡、奉成聖美、以章希世同符之隆、以傳億載不朽之榮。魂而有靈、嘉茲弘休。嗚呼哀哉!」八月壬申、葬于山陽國、陵曰禪陵、置園邑。葬之日、帝制錫衰弁絰、哭之慟。適孫桂氏鄉侯康、嗣立爲山陽公。
逸周書の諡法解には「献」について以下のようにあります。 聰明叡哲曰獻。知質有聖曰獻 聡明だったとかそういう意味。 参考資料として引用した歴史書ではやはり主に禅譲のこと触れているため 禅譲した=帝は聡明だった ということで献帝という理解で良いでしょうか。
中国史・20閲覧・500
ベストアンサー
①は長くなるので②から 献帝の諡号に関しては質問者さんの理解通りだと思います。 禅陵についても、『後漢書』献帝紀の注に引用されている、南朝斉・劉澄之の地理書に「以漢禪魏故、以名焉」とありますので、やはり禅譲に因んだ命名と理解してよいのではないかと。 問題の①ですが、ある程度基準がある諡号や廟号とは異なり、陵墓名の場合は正直史料を眺めていてもはっきりした基準は見えてきません。 曹操や孫堅の高陵などは、あるいは高祖のような開国の祖に送られる廟号と同じような意味合いかもしれませんがね。 ただまあ、時代が下ると陵墓名を定めるプロセスまで書かれた史料が残っています。 そこから何となく分かる主な傾向としては、①生前の業績を示す文字、②縁起が良い、または父祖への孝行・尊重を示すもの 以上の二点でしょうか。 ①で有名なのが明・洪武帝と馬皇后の孝陵。馬皇后の諡号には天下に孝行を尽くしたと言う意味合いで「孝」の文字が入っていまして、陵墓名もこれに因んでいます。 ②だと例えば後漢・光武帝は生前に陵墓を造営し、恐らく自らの長寿を願う意味で寿陵と命名しています。 勿論これらに当てはまらなかったり、基準がよく分からない例も出てくるのでこれが絶対と言うわけではありません。 さらに時代によっても差異が出てきます。 例えば前漢・文帝の霸陵(霸水=今の灞河付近に位置するため)や文帝の生母薄太后の南陵(霸陵の南にあるため)のように、立地条件で命名されるケースもありますが、こういったやり方は後世だとほぼ見られません。 明代のように先に陵墓名だけ決めておいて、その後に風水で綿密に調べた上で立地の決定や造営が行われる場合は、立地条件による命名はまず考えられないわけです。 ちなみに対立王朝または過去の王朝で使用されたことがあったり、先代とか先々代皇帝の時代に候補に挙がって却下された名称などは相応しくないと見做されたりします。 例えば北宋・徽宗の陵墓名は南宋時代に秦檜によって最初「永固陵」と命名されました。 明らかに成立間もない南宋の地盤固めを願った名称ですが、永固陵は北魏と北周、つまり夷狄の王朝で使われたものだから怪しからんという異論が出てきまして、これに秦檜がブチキレたものの、結局高宗が再考を求め、「永祐陵」に決まったという逸話があります。 上記のは少々特異な例ですが、北宋の時代でも遼の陵墓で既に使われているから却下した例もあります。 とは言え時代が下れば下るほどダブらないような字を探すのが困難になってきます。実際、過去に使われたものと被っているケースは結構あり、ここでも諡号や廟号に比べれば厳密ではない印象を受けます。 明代の陵墓名などはこの点をほとんど気にしていなかった形跡すらあり、清代の史料でネタにされてました。
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質問者からのお礼コメント
皆様ご回答ありがとうございました
お礼日時:1/25 12:33